とは美しい御言葉で知れました。奥様の白い手に見比べると、母親のは骨太な上に日に焼けて、男の手かと思われる位。
「奥様、これは御恥しい品《もの》でごわすが、ほんの御印ばかりに」
と母親は手土産《てみやげ》を出して、炉辺《ろばた》に置きました。
「あれ、そんな心配をしておくれだと……それじゃ反《かえっ》て御気毒ですねえ」
「否《いいえ》、どう致しやして。家で造《こしら》えやした味噌漬《みそづけ》で、召上られるような品《もの》じゃごわせんが」
「それは何よりなものを――まあ、御茶一つお上り」
「もう何卒《どうぞ》御構いなすって下さいますな」
「よくまあ、それでも早く来てくれましたねえ。あの、何ですか。名は何と言いますの」
「はい、お定と申しやす。実《まこと》に不調法者でごわして。何卒《どうか》まあ何分|宜《よろ》しく御願申しやす」
 私はつんつるてんの綿入に紺足袋穿《こんたびばき》という体裁《しこう》で、奥様に見られるのが何より気恥しゅう御座《ござい》ました。御傍へ添《よ》れば心持の好い香水が顔へ匂いかかる位、見るものも聞くものも私には新しく思われたのです。御奉公の御約束も纏《まとま》りました。母親は華麗《はで》な御暮《おくらし》や美しい御言葉の裡《なか》に私を独《ひとり》残して置いて、柏木へ帰って了《しま》いました。
 御本宅は丸茂《まるも》という暖簾《のれん》を懸《かけ》た塩問屋、これは旦那様の御兄様《おあにいさま》で、私の上りました御家は新宅と申しました。御本宅は大勢様、奉公人も十人の上|遣《つか》っておりましたが、新宅は旦那様に奥様、奉公人といえば爺《じい》さんが一人と、其処へ私が参りましたから、合せて四人暮。御本宅は旧気質《むかしかたぎ》の土地風。新宅は又た東京風。家の構造《つくり》を見比べても解るのです。旦那様は小諸へ東京を植えるという開けた思想《かんがえ》を御持ちなすった御方で、御服装《おみなり》も、御言葉も、旧弊は一切御廃し。それを御本家では平素《しじゅう》憎悪《にく》んでいるということでした。
 まあ、聞いて下さい。世には妙な容貌《かおだち》の人もあればあるもので、泣いている時ですら見たところは笑っているとしか思われないものがあります。旦那様のが丁度それで、眼の周囲《まわり》の筋の縮んだ工合から口元と頬《ほお》の間に深い皺《しわ》のある御様子は、全く旦那様の御顔を見ると笑が刻んであるようでした。さ、その御顔です。一時《いっとき》も油断をなさらない真面目《まじめ》な精神《こころ》の旦那様が、こうした御顔でいらっしゃるということは、不思議なようでした。然し、それが旦那様の御人《おひと》の好《いい》という証拠で、御天性《おうまれつき》の普通《なみ》の人とは違ったところでしょう。一体、寒い国の殿方には遅鈍《ぐずぐず》した無精な癖があるものですけれど、旦那様にはそれがありません。克《よく》もああ身体《からだ》が動くと思われる位に、勤勉《まめ》な働好《はたらきずき》な御方でした。
 小諸で新しい事業《しごと》とか相談とか言えば、誰は差置ても先《ま》ず荒井様という声が懸る。小諸に旦那様ほどの役者はないと言いました位です。
 私が上りました頃の御夫婦仲というものは、外目《よそめ》にも羨《うらや》ましいほどの御|睦《むつま》じさ。旦那様は朝早く御散歩をなさるか、御二階で御|調物《しらべもの》をなさるかで、朝飯前には小原の牝牛《うし》の乳を召上る。九時には帽子を冠って、前垂掛で銀行へ御出掛《おでまし》になる。御休暇《おやすみ》の日には御客様を下座敷へ通して、御談話《おはなし》でした。尋ねて来る御客様は町会議員、大地主、商家《たな》の旦那、新聞屋、いずれも土地の御歴々です。御晩食《おゆはん》の後は奥様と御対座《おさしむかい》、それは一日のうちでも一番楽しい時で、笑いさざめく御声が御部屋から泄《も》れて、耳を嬲《なぶ》るように炉辺までも聞える位でした。その時は珈琲《コーヒー》か茶を上げました。
 思えば結構尽《けっこうづくめ》の御暮です。私は洋燈《ランプ》の下で雑巾《ぞうきん》を刺し初めると、柏木のことが眼前《めのまえ》に浮いて来て、毎晩癖のようになりました。吾等《こちとら》の賤《いや》しい生涯《くちすぎ》では、農事《しごと》が多忙《いそが》しくなると朝も暗いうちに起きて、燈火《あかり》を点《つ》けて朝食《あさめし》を済ます。東の空が白々となれば田野《のら》へ出て、一日働くと女の身体は綿のようです。ある時、私は母親《おふくろ》と一緒に疲れきって、草の上に転んでいると、急に白雨《ゆうだち》が落ちて来た、二人とも起上る力がないのです。汗臭い身体を雨に打たれながら倒れたままで寝ていたことも有ました。その時に後で烈《ひど》い熱病を煩《わずら》って
前へ 次へ
全22ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング