て、子供を暖めた。
 この長い長い寒い季節を縮こまって、あだかも土の中同様に住み暮すということは、一冬でも容易でなかった。高瀬は妻と共に春を待ち侘びた。
 絶頂に達した山の上の寒さもいくらかゆるんで来た頃には、高瀬も漸《ようや》く虫のような眠から匍出《はいだ》して、復た周囲を見廻すようになった。その年の寒さには、塾でも生徒の中に一人の落伍者を出した。
 遽《にわ》かに復活《いきかえ》るように暖い雨の降る日、泉は亡くなった青年の死を弔おうとして、わざわざ小県《ちいさがた》の方から汽車でやって来た。その青年は、高瀬も四年手掛けた生徒だ。泉と連立って、高瀬はその生徒の家の方へ歩いて行った。
 赤坂という坂の町を下りようとする途中で、広岡学士も一緒に成った。
「なにしろ、十年来の寒さだった。我輩なぞはよく凍え死ななかったようなものだ。若い者だってこの寒さじゃ堪《たま》りませんナ」
 と学士は言って、汚れた雪の上に降りそそぐ雨を眺め眺め歩いた。
 漸く顕れかけた暗い土、黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李《すもも》、その他三人の眼にある木立の幹も枝も皆な雨に濡れて、黒々と穢《きたな》い寝恍顔《ねぼけがお》をしていない者は無かった。
 大きな洋傘《こうもり》をさしかけて、坂の下の方から話し話しやって来たのは、子安、日下部《くさかべ》の二人だった。塾の仲間は雨の中で一緒に成った。
 有望な塾の生徒を、しかも十八歳で失ったということは、そこへ皆なの心を集めた。暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立会で心臓の水を取った時は四合も出た。四十日ほど病んで死んだ。こう学士が立話をすると、土地から出て植物学を専攻した日下部は亡くなった生徒の幼少《ちいさ》い時のことなどを知っていて、十歳の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊《た》き母の髪まで結って置いて、それから小学校へ行った……病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と話した。
 式は生徒の自宅であった。そこには桜井先生を始め、先生の奥さんも見えた。正木未亡人も部屋の片隅に坐って、頭を垂れていた。塾の同窓の生徒は狭い庭に傘をさしかけ、縁側に腰掛けなどしていた。
 亡くなった青年が耶蘇《やそ》信者であったということを、高瀬はその日初めて知った。黒い布を掛け、青い十字架をつけ、牡丹《ぼたん》の造花を載せた棺の側には、桜井先生が司会者として立っていた。讃美歌《さんびか》が信徒側の人々によって歌われた。正木未亡人は宗教に心を寄せるように成って、先生の奥さんと一緒に讃美歌の本を開けていた。先生は哥林多《コリント》後書の第五章の一節を読んだ。亡くなった生徒の為に先生が弔いの言葉を述べた時は、年をとった母親が聖書を手にして泣いた。
 士族地の墓地まで、しとしとと降る雨の中を高瀬は他の同僚と一諸に見送りに行った。松の多い静かな小山の上に遺骸《いがい》が埋められた。墓地では讃美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、同級生などが佇立《たたず》んで、この光景《ありさま》を眺めていた。

 ある日、薄い色の洋傘《こうもり》を手にしたような都会風の婦人が馬場裏の高瀬の家を訪ねて来た。この流行《はやり》の風俗をした婦人は東京から来たお島の友達だった。最早《もう》山の上でもすっかり雪が溶けて、春らしい温暖《あたたか》な日の光が青い苔《こけ》の生えた草屋根や、毎年大根を掛けて干す土壁のところに映《あた》っていた。
 丁度、お島は手拭で髪を包んで、入口の庭の日あたりの好いところで余念なく張物をしていた。彼女の友達がそこへ来た時は、「これがお島さんか」という顔付をして、暫《しばら》く彼女を眺めたままで立っていた。
 お島は急いで張物板を片附け、冠っていた手拭を取って、六年ばかりも逢えなかった旧《もと》の友達を迎えた。
「まあ、岡本さん――」
 とその友達は、お島がまだ娘でいた頃の姓を可懐《なつか》しそうに呼んだ。
 一汽車待つ間、話して、お島の友達は長野の方へ乗って行った。その日は日曜だった。高瀬は浅黄の股引《ももひき》に、尻端を折り、腰には手拭をぶらさげ、憂鬱な顔の中に眼ばかり光らせて、他《よそ》から帰って来た。お島は勝手口の方へ自慢の漬物を出しに行って来て、炉辺で夫に茶を進めながら、訪ねてくれた友達の話をして笑った。
「私が面白い風俗《ふう》をして張物をしていたもんですから、吃驚《びっくり》したような顔してましたよ……」
「そんなに皆な田舎者に成っちゃったかナア」
 と高瀬も笑って、周囲を見廻した。煤《すす》けた壁のところには、歳暮《せいぼ》の景物に町の商家で出す暦附の板絵が去年のやその前の年のまで、子供の眼を悦ばせるために貼《はり》附けて
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