のことを思出したらしい調子で、
「もう五年前だ――」
 と答へた。B君は寫生帳を取出して、灰色なドロ柳の幹、[#改行はママ]
 風に動くそのやはらかい若葉などを寫し寫し話した。一寸散歩に出るにも、斯の畫家は寫生帳を離さなかつた。
 翌日は、私はB君と二人ぎりで、烏帽子が嶽の麓を指して出掛けた。私が牧場のことを尋ねたら、B君も寫生かた/″\一緒に行かうと言出したので、到頭私は一晩厄介に成つた。尤も斯の村から牧場のあるところへは、更に一里半ばかり上らなければ成らない。案内なしに、私などの行かれる場處では無かつた。
 夏山――山鶺鴒――斯ういふ言葉を聞いた丈でも、君は私達の進んで行く山道を想像するだらう。「のつペい」と稱する土は乾いて居て灰のやう。それを踏んで雜木林の間にある一條の細道を分けて行くと、黄勝ちなすゞしい若葉のかげで、私達は旅の商人に逢つた。
 更に山深く進んだ。山鳩なぞが啼いて居た。B君は歩きながら飛騨の旅の話を始めて、十一といふ鳥を聞いた時の淋しかつたことを言出した。「十一……十一……十一……」とB君は段々聲を細くして、谷を渡つて行く鳥の啼聲を眞似て聞かせた。そのうちに、私達はある岡の上へ出て來た。
 君、白い鈴のやうに垂れ下つた可憐な草花の一面に咲いた初夏の光に滿ちた岡の上を想像したまへ。私達は、あの香氣の高い谷の百合が斯樣《こんな》に生えて居る場所があらうとは思ひもよらなかつた。B君は西洋で斯の花のことを聞いて來て、北海道とか淺間山脈とかにあるとは知つて居たが、なにしろあまり澤山あるので終には採る氣もなかつた。二人とも足を投出して草の中に寢轉んだ。まるで花の臥床だ。谷の百合は一名を君影草とも言つて、「幸福の歸來」を意味するなどと、花好きなB君が話した。話の面白い美術家と一緒で、牧場へ行き着くまで、私は倦むことを知らなかつた。岡の上には到るところに躑躅《つゝじ》の花が咲いてゐた[#「ゐた」は底本では「山た」]。斯の花は牛が食はない爲に、それで斯う繁茂して居るといふ。
 一周すれば二里あまりもあるといふ廣々とした高原の一部が、私達の眼にあつた。牛の群が見える。何と思つたか、私達の方を眼掛けて突進して來る牛もある。斯うして放し飼にしてゐる牛の群の側を通るのは、慣れない私には氣味惡く思はれた。私達は牧夫の住んで居る方へと急いだ。
 番小屋は谷を下りたところにあ
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング