前の遊び友達は、小さな下駄の音をさせて、朝に晩に家の前を通った。家内は窓の格子《こうし》にとりついて、そういう子供の姿を眺める度に、お菊のことを思出していた。
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実《ほんと》にツマラない」
こう家内は口癖のように嘆息した。
私も、散々仕事で疲れた揚句で、急にお菊が居なくなった家の内に坐って見た時は、暴風にでも浚《さら》われて持って行かれたような気がした。山を下りてから、私には安い思をしたという日も少なかった。私の生命《いのち》は根から動揺《ゆすぶ》られ通しだ。
「ナニ、まだお房が居る」
と私は言って見た。
麻疹《はしか》後、とかくお房は元気が無かった。亡くなった私の母親を思出させるようなこの娘は、髪の毛の濃く多いところまでも似て来た。信州の牧野君からは子守を一人心配してよこしてくれた頃で、いくらか私の家でも沈着《おちつ》き、手も増えた。二人まで子供を失くしたことを考えて、私達はこの残った娘を大切に見なければ成らないと思った。上野に玩具《おもちゃ》の展覧会があった日には、お房も皆なに連れられて出掛けたが、何を見てもさ程面白がりもしないし、象や猿の居る動物園へ寄っても「早く吾家《おうち》へ帰りましょう」とばかりで、新宿の電車の終点から大久保まで疲れたような顔をして歩いて帰って来た。
草木も初夏の熱のために蒸される頃と成った。庭には木犀の若葉もかがやいたし、植木屋の盆栽棚には種々な花も咲いたし、裏の畠の方には村の人達が茶を摘んでいたし、何処へ行っても子供に取っては楽しい時であった。お房は一寸遊びに出たかと思うと、直に帰って来てゴロゴロしていた。お繁やお菊で私達も懲《こ》りたから、早速、新宿の医者に見せた。牛込の医者にも見せた。早く薬を服《の》ませて、癒したいと思って、医者の言う通りに、消化の好い物だの、牛乳だの、山家育ちで牛乳が嫌だと言えばミルク・フッドだの、と種々にしていたわった。お房は腸が悪いとのことであった。不思議な熱は出たり引いたりした。
五月の下旬に入っても、まだお房は薬を服んでいた。勧めてくれる人があって、私はある医者の許《ところ》へこの娘を見せに連れて行った。その時は、大久保に住む一人の友達とも一緒だった。強健《じょうぶ》そうな年寄の医者は、熱のために萎《しお》れた娘を前に置いて、根本から私達の衛生思想が間違ってい
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