て、それから姉にも別れを告げた。正太は寝ながら、よく見て置こうとするような眼付をして、叔父を見送った。その時は豊世は室に居なかった。幸作は病院の出口まで随《つ》いて送って来た。門を離れて、三吉は激しく泣いた。


「どうして、十日や二十日で死ぬようなものでは無いぞ。でも、正太も、下手《へた》に遺言なぞをしないところは、一寸彼も考えてる」こう森彦の旅舎《やどや》で人々が言い合うのを聞き捨てて、その晩三吉は名古屋を発った。夜行汽車の窓は暗かった。遠い空には稲妻《いなずま》が光って、それが窓の玻璃に映ったり消えたりした。
「叔父さん――叔父さん――」
 と呼ぶような別れ際《ぎわ》の正太のことを胸に浮べながら、三吉は自分の妻子の方へ帰って行った。それは最早六月の初であった。家では、お雪や親戚の娘達が名古屋の方の話を聞こうとして、彼の周囲《まわり》に集った。
 六月九日の夕、三吉は甥の死去したという電報に接した。その夜、火葬に附するともして有った。それを彼はお雪に見せて、互に顔を見合せた。
「今年は私も三十三の厄年です……ひょっとすると今度の御産では、正太さんの後を追うかも知れない……」
 心細そうに言って、お雪は二階の戸棚《とだな》にある写真箱の中から、正太の兜町《かぶとちょう》時代に撮《と》った半身で横向のを探し出して来た。それを亡くなった三人の娘の位牌《いはい》の前に置いて、燈明も進《あ》げた。
「なんだか急にそこいらが寂しく成った」
 と三吉も、今更のように家の内を眺め廻した。正太や豊世がかわるがわるやって来て、長火鉢の側でよく話したことは、何となく急に過去《うしろ》に成った。三吉夫婦の周囲《まわり》には、お俊夫婦、お愛夫婦などの若い一対が幾組も出来たばかりでなく、お福まで、勉と一緒に子供を連れて出て来て、東京に世帯を持つように成った。
 その晩は暑苦しい上に、風も無かった。七度目の懐妊した身《からだ》でいるお雪に取っては、この遽《にわ》かにやって来た暑気が殊《こと》に堪え難かった。蒸されるような身体の熱で、三吉も眠ろうとして眠られなかった。夫婦は子供等のごろごろ寝ている側で、話しつづけた。正太のことを語り合った。勉やお福の噂もした。終《しまい》には、自分等の過去ったことの話までも、それからそれと引出された。
 お雪は横に成りながら、
「……私は、自分のことを考えますと、なんですかこう三人別のものがそこへ出て来るような気がします――極く幼少《ちいさ》い時分と、学校に居た娘の頃と、それからお嫁に来てからと――三つずつ別々の自分じゃないかと思うような、まるでその間が切れちゃってるようなものです……私は子供の時分には、真実《ほんと》に泣いてばかりいるような児でしたからねえ……」真に心の底から出て来たような調子で、彼女は話した。
 すこしトロトロしたかと思うと、復た二人とも眼が覚めた。
「お雪、何時だろう――そろそろ夜が明けやしないか――今頃は、正太さんの死体《からだ》が壮《さか》んに燃えているかも知れない」
 こう言いながら、三吉は雨戸を一枚ばかり開けて見た。正太の死体が名古屋の病院から火葬場の方へ送られるのも、その夜のうちと想像された。屋外《そと》はまだ暗かった。



底本:「家(下)」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年5月10日発行
   1968(昭和43)年4月30日第18刷改版
   1998(平成10)年9月5日50刷
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:(株)モモ
校正:藤田禎宏
2000年12月5日公開
2000年12月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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