たように、老婆の方を見て、「老婆さん、貴方はあの路地のところへ行って、角に番をしていて下さい。じゃあ私は下谷の警察まで行って来ます」


 夜は更《ふ》けて来た。火事の混雑の後で、余計に四辺《あたり》はシーンとしていた。青ざめた街燈の火に映る電車通には、往来《ゆきき》の人も少なかった。柳並木の蔭は暗い。路地の角に、豊世と老婆《ばあさん》の二人が悄然《しょんぼり》立って、見張をしている。そこへ三吉が帰って来た。
「まだ帰りませんか」と三吉は二人に近づいて尋ねた。
「叔父さん、どうしたら宜《よ》う御座んしょうね」と豊世は愁《うれ》わしげに答えた。
「まあ家へ行って相談しようじゃ有りませんか」
 こういう三吉の後に随《つ》いて、豊世は重い足を運んだ。老婆も黙って歩いて行った。
 正太の家には、お仙を捜しに出たものが皆な一緒に集った。
「何時でしょう」と三吉が言出した。
「十一時過ぎました」と正太は懐中時計を出して見て答えた。
 しばらく正太は沈吟するように部屋の内を歩いて見た。やがて、玻璃《ガラス》障子の閉めてあるところへ行って、暗い空を窺《うかが》いながら立っていたが、復た皆なの居る方へ引返した。時々、彼は可恐《おそろ》しげな眼付をして、豊世の顔を睨《にら》みつけた。
「あぶないあぶないと平素《ふだん》から思っていたが、これ程とは思わなかった」正太はこんな風に妹のことを言って見た。
「一体、私が子供なぞを連れてやって来たのが悪かった」と三吉が言った。
 お種は引取って、「そんなことを言えば、私がお仙を連れて出て来たのが悪いようなものだ。いや、誰が悪いんでも無い。みんなあの娘《こ》が持って生れて来たのだぞや。どんなことが有ろうとも、私はもう絶念《あきら》めていますよ。それよりは、働けるものが好く働いて、夫婦して立派なものに成ってくれるのが、何よりですよ」
「私はネ」と正太は叔父の方を見て、「事業《しごと》と成ると、どんなにでも働けますが――使えば使うだけ、ますます頭脳《あたま》が冴《さ》えて来るんです――唯、こういう人情のことには、実際閉口だ」
「正太もまた、こんなことに凹《へこ》んで了うようなことじゃ不可《いけない》」
 とお種は健気《けなげ》にも、吾児《わがこ》を励ますように言う。
「ナニ、これしきのことに凹んでたまるもんですか。私の頭脳の中には、今塩瀬の店の運命がある――おまけに明日は晦日《みそか》という難関を控えている」
 こう言って、正太は鋭い眼付をした。
「さアさ」とお種は浴衣《ゆかた》の襟《えり》を掻合《かきあわ》せながら、家中を見廻して、「出来たことは仕方が有りません。とにかく一時頃まで皆なに休んで貰って、三吉と正太には気の毒だが、それからもう一度捜しに行って貰わず。三吉、すこし寝たが可いぞや。老婆《ばあさん》もそこで横にお成りや――それにかぎる」
 寝ろと言われても、誰も寝られるものは無かった。第一、そういうお種が眠らなかった。すこし横に成って見た人も、何時の間にか起きて、皆なの話に加わった。十二時頃、一同夜食した。
 時計が一時を打つ頃、三吉、正太の二人は更に仕度《したく》して出掛けることに成った。
「叔父さん、風邪《かぜ》を引くといけませんよ――シャツでも進《あ》げましょう」と言って、正太は豊世の方を見て、「股引《ももひき》も出して進げな」
「じゃあ、拝借するとしよう」と三吉が言った。
 三吉は股引に尻端折《しりはしょり》。正太もきりりとした服装《なり》をして、夏帽子を冠って出た。


「姉さん、お仙ちゃんが帰って来たそうですネ――よかった、よかった。僕は今そこの交番で聞いて来た」
 と言って、三吉が飛込んで来た。
「お仙、叔父さんに御礼を言わないか」
 とお種に言われて、お仙はすこし顔を紅《あか》めながら手を突いた。この無邪気な娘は唯マゴマゴしていた。
「叔父さん、もうすこしで危いところ」と豊世は妹の後に居て、「悪い者に附かれたらしいんですが、好い塩梅《あんばい》に刑事に見つかったんだそうです。今まで警察の方に留めて置かれたんですッて」
 そこへ正太も妹の無事を喜びながら入って来た。
「随分心配させられたぜ、もうもうどんなことが有っても、独《ひと》りでなんぞ屋外《そと》へ出されない」と言って、正太は溜息《ためいき》を吐《つ》いて、「お仙がもし帰らなかったら、それこそ家のやつを擲殺《はりころ》してくれようかと思った」
「ええ、そこどこじゃない」と豊世は後向に涙を拭《ふ》いて、「お仙ちゃんが帰らなければ、私はもう死ぬつもりでしたよ……」
 一同はお仙を取囲《とりま》いて種々なことを尋ねて見た。お仙は混雑した記憶を辿《たど》るという風で、手を振ったり、身体《からだ》を動《ゆす》ったりして、
「なんでもその男の人が、
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