見せたが、お雪には暗くてよく見えなかった。
「ここをお前の部屋にするが好い」
 と三吉が洋燈を持って案内したは、炉辺の次にある八畳の間で、高い天井、茶色の壁紙で貼《は》った床の間などがお雪の眼についた。奥には、これと同じ大さの部屋があって、そこには本や机が置いてある。その隣に書生の部屋がある。割合に広い住居ではあったが、なにしろ田舎臭い処であった。
 停車場前で頼んで置いた荷物も届いた。夫婦は未だ汽車で動《ゆす》られているような気がした。途中から一緒に汽車に乗り込んで来た夫婦ものらしい人達は、未だ二人の前に腰掛けて二人の方を見て、何か私語《ささや》き合っているらしくも思われた。あの細君の大きな目――あの亭主の弱々しい、力のない眼――そういうものは考えたばかりでも羞恥《しゅうち》の念を起させた。二人は人に見られて旅することを羞《は》じた。どうかすると互に顔を見ることすら避けたかった。


 戸の透間《すきま》が明るく成った。お雪は台所の方へ行って働いた。裏口を開けて屋外《そと》へ出てみると、新鮮な朝の空気は彼女に蘇生《いきかえ》るような力を与えた。その清々《せいせい》とした空気はお雪が吸ったことの無いようなものであった。
 一晩知らずに眠った家は隣と二軒つづきの藁葺《わらぶき》の屋根であった。暗くて分らなかった家の周囲《まわり》もお雪の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。彼女は、桑畠《くわばたけ》の向に見える人家や樹木の間から、遠く連《つづ》いた山々を望むことの出来るような処へ来ていた。ゴットン、ゴットンと煩《うるさ》く耳についたは、水車の音であった。
 裏には細い流もあった。胡頽子《ぐみ》の樹の下で、お雪は腰を曲《かが》めて、冷い水を手に掬《すく》った。隣の竹藪《たけやぶ》の方から草を押して落ちて来る水は、見ているうちに石の間を流れて行く。こういう処で顔を洗うということすら、お雪にはめずらしかった。
 例の書生は手桶《ておけ》を提《さ》げて、表の方から裏口へ廻って来た。飲水を汲《く》む為には、唐松《からまつ》の枝で囲った垣根の間を通って、共同の掘井戸まで行《いか》なければ成らなかった。
 前の晩に見たよりは、家の内の住み荒された光景《ありさま》も余計に目についた。生家《さと》を見慣れた眼で、部屋々々を眺めると、未だ四辺《そこいら》を飾る程の道具一つ出来ていなかった。

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