い」と稲垣も言った。「実は吾家《うち》でもその事で気を揉《も》んでいました。それから式へ出るのは、私だけにして下さい。簡単。簡単。皆な揃《そろ》って押出すのは、大に儲《もう》けた時のことにしましょう――ねえ、姉さん」
「真実《ほんと》に、そうですよ」とお倉は微笑《ほほえ》んで、「私なんか出たくも、碌《ろく》な紋付も持たない」
「まあ、姉さんのように仰《おっしゃ》るものじゃ有りません」と言って、稲垣は手を振って、「出たいと思えば、何程《いくら》でも出る方法は有りますがね――隣の娘なんか借着で見合をしましたあね、御覧なさい、それをまた損料で貸して歩く女も居る――そういう世の中ですけれど、時節というものも有りますからね」
「簡単。簡単」と実も力を入れて命令するように言った。
稲垣は使に出て行った。料理屋へは打合せに行く、三吉の方へは電報を打つ、この人も多忙《いそが》しい思いをした。その電報が行くと直ぐ三吉も出て来る手筈《てはず》に成っていた。
「宗蔵は暫時《しばらく》稲垣さんの方へ行っておれや」
と兄に言われて、宗蔵も不承々々に自分の部屋を離れた。彼は、不自由な脚《あし》を引摺《ひきず》りながら、稲垣の家の方へ移されて行った。
婚礼の日は、朝早く実も起きて庭の隅々《すみずみ》まで掃除した。家の内も奇麗に取片付けた。奥座敷に並べてある諸道具は、丁寧に鳥毛の塵払《ちりばらい》をかけて、机の上から箪笥《たんす》茶戸棚《ちゃとだな》まで、自分の気に入ったように飾ってみた。火鉢《ひばち》の周囲《まわり》には座蒲団《ざぶとん》を置いた。煙草盆《たばこぼん》、巻煙草入、灰皿なども用意した。こうして、独《ひと》りで茶を入れて、香の薫《かおり》に満ちた室内を眺め廻した時は、名倉の家の人達が何時《いつ》来て見ても好いと思った。床の間に飾った孔雀《くじゃく》の羽の色彩《いろどり》は殊《こと》に彼の心を歓《よろこ》ばせた。
弟の森彦からも、三吉の結婚を祝って来た。その手紙には、自分は今|旅舎《やどや》住居《ずまい》の境遇であるから、式に出ることだけは見合せる、万事兄上の方で宜敷《よろしく》、三吉にも宜敷、としてあった。
「貴方、俊の下駄《げた》を買って来ました――見てやって下さい」
こう言って、お倉は娘と一緒に買物から帰って来た。
「どれ、見せろ」と実は高い表付の赤く塗った下駄を引取っ
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