崖下《がけした》には乗合馬車が待っていた。車の中には二三の客もあった。この車はお六|櫛《ぐし》を売る宿《しゅく》あたりまでしか乗せないので、遠く行こうとする旅人は其処《そこ》で一つ山を越えて、更に他の車へ乗替えなければ成らなかった。
「直樹さんと来た時は沓掛《くつかけ》から歩きましたが、途中で虻《あぶ》に付かれて困りましたッけ」
「ええ、蠅《はえ》だの、蚋《ぶよ》だの……そういうものは木曾路《きそじ》の名物です。産馬地《うまどこ》の故《せい》でしょうね」
 こんな言葉を、三吉と正太とは車の上と下とで取換《とりかわ》した。
 ノンキな田舎のことで、馬車は容易に出なかった。三吉は車の周囲《まわり》に立って見送っている達雄や嘉助や若い手代達にも話しかける時はあった。待っても待っても他に乗合客が見えそうもないので、馬丁《べっとう》はちょっと口笛を吹いて、それから手綱《たづな》を執った。車は崖について、朝日の映《あた》った道路を滑《すべ》り始めた。二月ばかり一緒にいた人達の顔は次第に三吉から遠く成った。

        三

 弟の三吉が帰るという報知《しらせ》を、実は東京の住居《すまい》の方で受取った。小泉の実と橋本の達雄とは、義理ある兄弟の中でも殊《こと》に相許している仲で、旧《ふる》い家を相続したことも似ているし、地方の「旦那衆」として知られたことも似ているし、年齢《とし》から言ってもそう沢山違っていなかった。
 実は、達雄のように武士として、又薬の家の主人《あるじ》としての阿爺《おやじ》を持たなかったが、そのかわりに、一村の父として、大地主としての阿爺を持った。父の忠寛は一生を煩悶《はんもん》に終ったような人で、思い余っては故郷を飛出して行って国事の為に奔走するという風であったから、実が十七の年には最早家を任せられる程の境涯にあった。彼は少壮《としわか》な孝子で、又|可傷《いたま》しい犠牲者であった。父の亡くなる頃は、彼も地方に居て、郡会議員、県会議員などに選ばれ、多くの尊敬を払われたものであったが、その後都会へ出て種々な事業に携《たずさわ》るように成ってから、失敗の生涯ばかり続いた。製氷を手始めとして、後から後から大きな穴が開いた。
 不図《ふと》した身の蹉跌《つまずき》から、彼も入獄の苦痛を嘗《な》めて来た人である。赤|煉瓦《れんが》の大きな門の前には、弟の宗
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