行こうとする方面にも興味を感じている。その日も、三吉の書きかけた草稿を机の上に展《ひろ》げて、清《すず》しい、力のある父の達雄に克《よ》く似た声で読聞かせた。
 東京で送った二年――殊《こと》にその間の冬休を三吉叔父と一緒に仙台で暮したことは、正太に取って忘れられなかった。東京から押掛けて行くと、丁度叔父は旅舎《やどや》の裏二階に下宿していて、相携えて人を訪ねたり、松島の方まで遊びに行ったりした。あの時も、仙台で、叔父の書いたものを見せて貰って、寂しい旅舎の洋燈《ランプ》の下でその草稿を読み聞かせながら、一緒に長い冬の夜を送ったことが有った。それを正太は言出さずにいられなかった。
「そうそう」と三吉も思出したように、「丁度岩沼の基督降誕祭《クリスマス》に招ばれて行った後へ、君が訪ねて来て……あんな田舎らしい基督降誕祭に遭遇《であ》ったことは僕も始めてでしたよ……信者が五目飯なぞを煮《た》いて御馳走《ごちそう》してくれましたッけ。あの晩は長老の呉服屋さんの家に泊って、翌朝《あくるあさ》阿武隈川《あぶくまがわ》を見に行って、それから汽車で仙台へ帰てみると、君が来ていた……」
「そうでしたね……あの二階から海の音なぞも聞えましたね」と正太は若々しい眼付をして言った。
「仙台は好かったよ。葡萄|畠《ばたけ》はある、梨畠はある……読みたいと思う書籍《ほん》は何程《いくら》でも借りて来られる……彼処《あすこ》へ行って僕も夜が明けたような気がしたサ……あれまでというものは、君、死んでいたようなものだったからね」と言って、三吉は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いて、「考えてみると、僕のような人間がよく今まで生きて来たようなものだ」
 正太は叔父の顔を眺めた。
 三吉は言葉を継いで、「彼処へ着いた晩から、僕は最早《もう》別の人だった。種々な物が活《い》きて見えて来た。書く気も起った……」
「あの時叔父さんの書いたものは、吾家《うち》に蔵《しま》ってあります」
「しかし正太さん、お互にこれからですネ。僕なぞも未だ若いんですから、これから一つ歩き出してみようと思いますよ……」
 こんな話をしているところへ直樹が入って来た。直樹は中学に入ったばかりの青年で、折取った野の花を提げて、草臥《くたぶ》れたような顔付をしながら屋外《そと》から帰って来た。
「直樹さん、何処《どちら》へ?」と三吉が聞い
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