前、別に心配なことは無いぜ。姉さんのことだから必《きっ》と大切にしてくれる」
「姉さんが何と仰《おっしゃ》っても――繁ちゃんは私の児です――」
姉が末の子供を郷里の方へ連れて行きたいという話は、三吉の方にあった。お雪は聞入れようともしなかった。
秋も深く成って、三吉の家ではめずらしく訪ねて来た正太を迎えた。正太は一寸上京した帰りがけに、汽車の順路を山の上の方へ取って、一夜を叔父の寓居《すまい》で送ろうとして立寄ったのであった。
奥の部屋では客と主人の混《まざ》り合った笑声が起った。お種は台所の方へ行ったり、吾子《わがこ》の側へ行ったりして、一つ処に沈着《おちつ》いていられないほど元気づいた。
「正太や――お前は母親《おっか》さんを連れてってくれられる人かや」
「いや、今度は途中で用達《ようたし》の都合も有りますからネ――母親さんの御迎には、いずれ近いうちに嘉助をよこす積りです」
「そんなら、それで可いが、一寸お前の都合を聞いて見たのさ。何も今度に限ったことは無いで……」
三吉を前に置いて、橋本親子はこんな言葉を換《かわ》した。漸《ようや》くお種は帰郷の日が近づいたことを知った。その喜悦《よろこび》を持って、復たお雪の方へ行った。
三吉と正太とは久し振で話した。この二人が木曾以来一度一緒に成ったのは、達雄の家出をしたという後であった。顔を合せる度に、二人は種々《さまざま》な感に打たれた。でも、正太は元気で、父の失敗を双肩に荷《にな》おうとする程の意気込を見せていた。
「正太さん。姉さんも余程|沈着《おちつ》いて来ましたろう。僕の家へ来たばかりの時分はどうも未だ調子が本当で無かった――僕が姉さんに、郷里《くに》へ帰ったら草鞋《わらじ》でも穿《は》いて、薬を売りに御出掛なさいなんて、そんな串談《じょうだん》を言ってるところです」
「そういう気分に成れると可《い》いんですけれど……然《しか》し、最早連れて帰っても大丈夫でしょう。母親さんが家へ行って見たら、定めし驚くことでしょうナア。なにしろ、私も手の着けようが有りませんから、一切を挙げ皆さんに宜敷《よろしく》頼む、持って行きたい物は持っておいでなさい――何もかもそこへ投出して了ったんです」
「その決心は容易でなかったろうネ」
「ところが、叔父さん、その為に漸く家の整理がつきました。そりゃあもう、襖《ふすま》に
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