る部屋へ入って、身じまいする道具を展《ひろ》げた。そこは以前書生の居た静かな部屋で、どうかすると三吉が仕事を持込むこともある。家中で一番引隠れた場処である。お種が大事にして旅へ持って来た鏡は、可成《かなり》大きな、厚手の玻璃《ガラス》であった。それに対《むか》って、サッパリと汗不知《あせしらず》でも附けようとすると、往時《むかし》小泉の老祖母《おばあさん》が六十余に成るまで身だしなみを忘れずに、毎日薄化粧したことなどが、昔風の婦人《おんな》の手本としてお種の胸に浮んだ。年のいかない芸者|風情《ふぜい》に大切な夫を奪去られたか……そんな遣瀬《やるせ》ないような心も起った。残酷なほど正直な鏡の中には、最早|凋落《ちょうらく》し尽くした女が映っていた。肉が衰えては、節操《みさお》も無意味で有るかのように……
 頬の紅いお房の笑顔が、伯母の背後《うしろ》から、鏡の中へ入って来た。
「房ちゃん、お前さんにもお化粧《つくり》して進《あ》げましょう――オオ、オオ、お湯《ぶう》に入って好い色に成った」
 と言われて、お房は日に焼けた子供らしい顔を伯母の方へ突出した。
 やがてお種はお房を連れて、お雪の居る方へ行った。お雪も自分で束髪を直しているところであった。
「母さん」とお房は真白に塗られた頬を寄せて見せる。
「へえ、母さん、見てやって下さい――こんなに奇麗に成りましたよ」とお種が笑った。
「まあ……」とお雪も笑わずにいられなかった。「房ちゃんは色が黒いから、真実《ほんと》に可笑《おか》しい」
 暫時《しばらく》、お種はそこに立って、お雪の方を眺めていたが、終《しまい》に堪え切れなくなったという風で、こう言出した。
「お雪さん、そんな田舎臭い束髪を……どれ、貸して見さっせ……私は豊世のを見て来たで、一つ東京風に結ってみて進《あ》げるに」
 お房は大きな口を開きながら、家の中を歌って歩いた。


 南の障子に近いところは、お雪が針仕事を展げる場所である。お種はお雪と相対《さしむかい》に坐って、余念もなく秋の仕度の手伝いをした。障子の側は明るくて、物を解いたり縫ったりするに好かった。
「菊ちゃん、伯母さんにその写真を見せとくれ――伯母さんは未だよく拝見しないのが有った」
 お種は子供が取出した幾枚かの写真を受取った。お雪が生家《さと》の方の人達の面影《おもかげ》は順々に出て来た。

前へ 次へ
全147ページ中138ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング