老祖母の生家の方でも、お種を欲しいということで、折角好ましく思った橋本の縁談も破れるばかりに成ったことが有った。それを破ろうとした人が老祖母だ。母は老祖母への義理を思って、すでに橋本の方を断りかけた。もしあの時《とき》……お種が自害して果てる程の決心を起さなかったら、あるいは達雄と夫婦に成れなかったかも知れない……
 思いあまって我と我身を傷《きずつ》けようとした娘らしさ、母に見つかって救われた当時の光景《さま》、それからそれへとお種の胸に浮んで来た。
 これ程の思をして橋本へ嫁いて来たお種である。その志は、正太を腹《おなか》に持ち、お仙を腹に持った後までも、変らない積であった。人には言えない彼女の長い病気――実はそれも夫の放蕩《ほうとう》の結果であった。彼女は身を食《くわ》れる程の苦痛にも耐えた――夫を愛した――
 ここまで思い続けると、お種は頭脳《あたま》の内部《なか》が錯乱して来て、終《しまい》には何にも考えることが出来なかった。
「ああ、こんなことを思うだけ、私は足りないんだ……私が側に居ないではどんなにか旦那も不自由を成さるだろう……」
 とお種は、濡《ぬ》れた身《からだ》を拭《ふ》く時に、思い直した。
 湯から上って、着物を着ようとすると、そこに大きな姿見がある。思わずお種はその前に立った。湯気で曇った玻璃《ガラス》の面を拭いてみると、狂死した父そのままの蒼《あお》ざめた姿が映っていた。


「真実《ほんと》に、橋本さんは御羨《おうらやま》しい御身分ですねえ――御国の方からは御金を取寄せて、こうしていくらでも遊んでいらっしゃられるなんて」
 すこし長く居る女の湯治客の中には、お種に向って、こんなことを言う人も有った。お種は返事の仕ようが無かった。
「ええ……私のようにノンキな者は有りませんよ」
 お種は自分の部屋へ入っては声を呑《の》んだ。
 林の家族はやがて東京の方へ引揚げて行った。お種の話相手に成って慰めたり励ましたりした隠居も最早居なかった。この温泉場を発《た》って行く人達を見送るにつけても、お種はせめて東京まで出て、嫁と一緒に成りたいと願ったが、三月に入っても未だ許されなかった。沈着《おちつ》け、沈着けという意味の手紙ばかり諸方から受取った。
 国の方からは送金も絶え勝に成った。そのかわり東京の森彦から見舞として金を送って来た。この弟の勧めで、お
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