を知る者は、誰一人として家の模様をあからさまに告げて寄《よこ》すものが無かった。
 何にも達雄からは音沙汰《おとさた》が無い……苦しいことが有れば有るように、せめて妻の許《ところ》だけへは家出をした先からでも便りが有りそうなもの、とこうお種は夫の心を頼んでいた。また一月待った。


 橋本の若夫婦――正太、豊世の二人は、母のことを心配して、便船に乗って来た。
 この人達を宿の二階に迎えた時のお種の心地《こころもち》は、丁度吾子を乗せた救い舟にでも遭遇《であ》ったようで、破船同様の母には何から尋《たず》ねて可いか解らなかった。
 忰《せがれ》や嫁の顔を見ると、お種も力を得た。彼女はすこし元気づいたような調子で、自分の落胆していることを若いものに見せまいとする風であった。
「お前達は子が無いで――こういう温泉地へ子でも造りに来たかい」
 と言われて、正太と豊世とは暫時《しばらく》顔を見合せた。
「母親《おっか》さん、そこどころじゃ有りませんよ……」
 と豊世が愁《うれ》わしげに言出した。
 正太はこの話を遮《さえぎ》って、妻にも入浴させ、自分でも旅の疲労を忘れようとした。
 浴室は折れ曲った階段を降りて行ったところにあった。伊豆らしい空の見える廊下のところで若夫婦はちょっと佇立《たたず》んだ。
「お前達は子でも造りに来たかいなんて――母親さんはあんな気で被入《いらっ》しゃるんでしょうか」と豊世が言ってみた。「真実《ほんと》に何からお話したら可いでしょうねえ……」
「なにしろ、お前、ああいう気性の母親さんだから、一時《いちどき》に下手《へた》なことは話せない」と正太も言った。「お前が側に附いていて追々と話して進《あ》げるんだネ」
 こんな言葉を取換《とりかわ》した後、正太は二三の男の浴客に混って、湯船の中に身を浸した。彼は妻だけこの伊東に残して置いて復た国の方へ引返さなければ成らない人で有った。前途は彼に取って唯|暗澹《あんたん》としている。父が投出して置いて行った家の後仕末もせねば成らぬ。多くの負債も引受けねば成らぬ。「家なぞはどうでも可い」とよく往時《むかし》思い思いした正太ではあるが、いざ旧《ふる》い家が壊《こわ》れかけて来たと成ると、自分から進んでその波の中へ捲込《まきこ》まれて行った。
 湯から上って、正太は母や妻と一緒に成った。
 母は声を低くして、「林の御隠
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