ら帰って用を達して下さい。最早《もう》船に乗るだけの話で、海さえ平穏《おだやか》なら伊東へ着くのは造作ない――私|独《ひと》りで行きます」
「そうか……そうして貰えると、俺も大きに難有《ありがた》い……しかし、お前独りで大丈夫かナ」と達雄が言った。
「大丈夫にも何にも。ここまで貴方に送って頂けば沢山です。初めての旅ではないし、それに伊東へ行けば多分林さん御夫婦や御隠居さんが来ていらっしゃるで、何にも心配なことは有りません」
「じゃあ、ここでお前に別れるとしよう……こうっと、俺はこれから直に東京へ引返して、銀行の方の用達をしてト……大多忙《おおいそがし》」
 こういう話しをしているところへ、宿の下婢《おんな》が船の時間を知らせに来た。東京の方へ出る汽車が有ると見えて、宿を発《た》って行く旅人も有った。
「汽車が出るそうな」とお種は聞耳を立てた。「丁度好い――この汽車に乗らっせるが可い」
「伊東まで行く思をして御覧な」と達雄は言った。「なにも、そんなに周章《あわ》てなくても好い。汽車はいくらも出る」
「でも、貴方は、一日を争う身だなんて仰《おっしゃ》っていらしったで……それほど大切な時なら、一汽車でも早く東京へ入った方が好からずと思って」
「まあ、船までお前を送ってやるわい」
 多忙《いそが》しがっている人に似合わず、達雄はガッカリしたように坐って、復《ま》た煙草を燻《ふか》し始めた。何となく彼は平素《ふだん》のように沈着《おちつ》いていなかった。
 停車場の方では、汽車の笛が鳴った。達雄は一向それに頓着《とんちゃく》なしで、思い屈したように、深く青い海の方を眺めていた。
 そのうちに、伊東行の汽船の出る時が来た。夫婦は宿を出て、古い松並木の蔭から海岸の方へ下りた。細い砂を踏んで、礫《こいし》のあるところまで行くと、そこには浪《なみ》が打寄せている。旅人の群も集って来ている。艀《はしけ》に乗る男女の客は、いずれも船頭の背中を借りて、泡立ち砕ける波の中を越さねば成らぬ。お種は夫に別れて、あるたくましげな男に背負《おぶ》さった。男はジャブジャブ白い泡の中を分けて行った。
 艀が浮いたり沈んだりして本船の方へ近づくに随《したが》って、悄然《しょんぼり》見送りながら立っている達雄の顔も次第にお種には解らなく成った。勝手を知った舟旅で、加《おまけ》に天気は好し、こうして独りで海を
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