半の汽車には乗らなくちゃ成らない。今夜はいずれ酒だろうから、僕はあまり難有くない方だけれど――それに、明日はいよいよ演説をやる日取だ」
「それにしても、まあユックリして行ってくれ給え」
「あの時計は宛《あて》に成らない」と西は次の部屋に掛けてある柱時計と自分のとを見比べた。「大変後れてるよ」
「アア吾家《うち》のは後れてる」と三吉も答えた。
お雪はビイルに有合せの物を添えて、そこへ持って来た。「なんにも御座いませんけれど、どうか召上って下さい」と彼女が言った。三吉も田舎料理をすすめて、久し振で友人をもてなそうとした。
「こりゃどうも恐れ入ったねえ。僕は相変らず飲めない方でねえ」と西は言った。「しかし、気が急《せ》いて不可《いけない》から、遠慮なしに頂きます」
三吉は記者にもビイルを勧めた。「長野の新聞の方には未だ長くいらっしゃる御積りなんですか」
「そうですナア、一年ばかりも居たら帰るかも知れません……是方《こっち》に居ても話相手は無し、ツマリませんからね……私は信濃《しなの》という国には少許《すこし》も興味が有りません」こう記者が答えた。
西はめずらしそうに、牛額《うしびたい》と称する蕈《きのこ》の塩漬などを試みながら、「僕は碓氷《うすい》を越す時に――一昨日《おととい》だ――真実《ほんと》に寂しかったねえ。彼方《あそこ》までは何の気なしに乗って来たが、さあ隧道《トンネル》に掛ったら、旅という心地《こころもち》が浮いて来た。あの隧道を――君、そうじゃないか――誰だって何の感じもしないで通るという人は有るまいと思うよ。小泉君が書籍《ほん》を探しに東京へ出掛けて、彼処を往ったり来たりする時は、どんな心地だろう」
客を見送りながら、三吉は名残《なごり》惜しそうに停車場まで随《つ》いて行った。寒く暗い停車場の構内には、懐手《ふところで》をした農夫、真綿帽子を冠《かぶ》った旅商人、それから灰色な髪の子守の群などが集っていた。
西と三吉とは巻烟草《まきたばこ》に火を点けた。記者もその側に立って、
「僕が初めて西君と懇意に成ったのは、何時《いつ》頃だっけね。そうだ、君が大学へ入った年だ。僕はその頃、新聞屋仲間の年少者サ――二十の年だっけ――その頃に最早天下の大勢なんてことを論じていたんだよ」
「今は余程《よっぽど》分っていなくちゃならない――ところが、君、やっぱり
前へ
次へ
全147ページ中98ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング