ゆふはん》には何を仕度しやうと尋ねた。「御酒をつけますか。」斯う附添して言つた。
「あゝ、お爛を熱くして持つて來とくれ。」とK君が答へた。
「姉さん、それから御酒《おさけ》は上等だよ。」
 吾儕の身體も冷えては居たが、湯も熱かつた。谷底の石の間から湧く温泉の中へ吾儕は肩まで沈んで、各自《めい/\》放肆《ほしいまゝ》に手足を伸ばした。そして互に顏を見合せて、寒かつた途中のことを思つて見た。
 其日、吾儕の頭腦《あたま》の内《なか》は朝から出逢つた種々雜多な人々で充たされて居た。咄嗟に過ぎる影、人の息、髮のにほひ――汽車中のことを考えると、都會の空氣は何處迄も吾儕から離れなかつた。吾儕は、枯々な桑畠や、淺く萌出した麥の畠などの間を通つて、こゝまで來たが、來て見ると斯の廣い湯槽《ゆぶね》の周圍へ集る人々は、いづれも東京や横濱あたりで出逢さうな人達ばかりである。男女の浴客は多勢出たり入つたりして居る。中には、男を男とも思はぬやうな顏付をして、女同志で湯治に來たらしい人達も居る。その人達の老衰した、萎びた乳房が、湯氣の内に朦朧と見える。吾儕は未だ全く知らない人の中へ來て居る氣はしなかつた。
 湯から上つて、洋服やインバスの脱ぎ散してある部屋へ戻つた。これから行く先の話が出た。K君とA君とは地圖を持出した。其時吾儕は茶代の相談をした。
「何處へ行つて泊つても僕は茶代を先へ出したことが無い。」斯うK君が言つた。「何時でも發つ時に置く。待遇が好ければ多く置いて來るし、惡ければまた其樣にして來る。」
「僕も左樣《さう》だナ。」とA君も言つた。
 兎に角、この雜踏した宿では先づ置くことにした。大船でサンドヰツチを買つた時から、M君は帳面方を引受けて居て呉れた。
 こゝの女中も矢張東京横濱方面から來て居るものが多いといふ。夕飯には、吸物、刺身、ソボロ、玉子燒などが附いた。女中は堅肥りのした手を延ばして、皆《みん》なの盃へ酒を注《つ》いだ。
「汽車の中で君に稻妻小僧の新聞を出して見せた女があつたネ。あの女なぞは餘程面白かつた。僕は左樣思つて見て來た――あれで得意なんだネ。」
 とK君は私の方を見て思出したやうに言つた。吾儕は樂しく笑ひ乍ら食つた。
 宿帳はA君がつけた。A君は皆なの年齡《とし》を聞いて書いた。K君三十九、A君は三十五、M君三十、私は三十八だ。やがてK君は大蛇のやうに横に成つ
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