《あ》りました。祖父《おぢい》さんはいつでも書院《しよゐん》に居《ゐ》ました。父《とう》さんもその書院《しよゐん》に寢《ね》ましたが、曾祖母《ひいおばあ》さんが獨《ひと》りで寂《さび》しいといふ時《とき》には離《はな》れの隱居部屋《ゐんきよべや》へも泊《とま》[#ルビの「とま」は底本では「ま」]りに行《い》くことが有《あ》りました。祖父《おぢい》さんの書院《しよゐん》の前《まへ》には、白《しろ》い大《おほ》きな花《はな》の咲《さ》く牡丹《ぼたん》があり、古《ふる》い松《まつ》の樹《き》もありました。月《つき》のいゝ晩《ばん》なぞには松《まつ》の樹《き》の影《かげ》が部屋《へや》の障子《しやうじ》に映《うつ》りました。この書院《しよゐん》から中《なか》の間《ま》へつゞく廊下《らうか》のあたりは、父《とう》さんのよく遊《あそ》んだところです。中《なか》の間《ま》はお家《うち》のなかでも一|番《ばん》明《あか》るい部屋《へや》でして、遠《とほ》く美濃《みの》の國《くに》の方《はう》の空《そら》までその部屋《へや》から見《み》えました。祖母《おばあ》さんや伯母《をば》さんが針仕事《はりしごと》をひろげるのもその部屋《へや》でしたし、父《とう》さんが武者繪《むしやゑ》の敷寫《しきうつ》しなどをして遊《あそ》ぶのもその部屋《へや》でしたし、お隣《とな》りのお勇《ゆう》さんが手習《てならひ》に來《き》て祖父《おぢい》さんの書《か》いたお手本《てほん》を習《なら》ふのもその部屋《へや》でした。
お隣《とな》りの鐵《てつ》さんは、父《とう》さんのお家《うち》の友伯父《ともをぢ》さんと同《おな》い年《どし》ぐらゐで、一緒《いつしよ》に遊《あそ》ぶにも父《とう》さんの方《はう》がいくらか弟《おとうと》のやうに思《おも》はれるところが有《あ》りました。近所《きんじよ》の子供《こども》の中《なか》で、遊《あそ》んで氣《き》の置《お》けないのは、問屋《とんや》の三|郎《らう》さんに、お隣《とな》りのお勇《ゆう》さんでした。この人達《ひとたち》は父《とう》さんと同《おな》い年《どし》でした。祖父《おぢい》さんは字《じ》を書《か》くことが好《す》きで、赤《あか》い毛氈《まうせん》の上《うへ》へ大《おほ》きな紙《かみ》をひろげて、夜《よ》遲《おそ》くなるまで何《なに》かよく書《か》きましたが、その度
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