第に心の昂奮《こうふん》を覚えた。
「もうお俥《くるま》も来て待っておりますよ。そんなら小山さん、お気をつけなすって」
 という看護婦長の声に送られて、おげんは病室を出た。
 黒い幌《ほろ》を掛けた俥は養生園の表庭の内まで引き入れてあった。おげんが皆に暇乞《いとまご》いして、その俥に乗ろうとする頃は、屋外《そと》は真暗だった。霜にでも成るように寒い晩の空気はおげんの顔に来た。暗い庭の外まで出て見送ってくれる人達の顔や、そこに立つ車夫の顔なぞが病室の入口から射す燈火《あかり》に映って、僅《わず》かにおげんの眼に光って見えた。間もなくおげんを乗せた俥はごとごと土の上を動いて行く音をさせて養生園の門から離れて行った。
 町の燈火がちらちら俥の上から見えるまでに、おげんは可成《かなり》暗い静かな道を乗って行った。彼女は東京のような大都会のどの辺を乗って行くのか、何処へ向って行くのか、その方角すらも全く分らなかった。唯、幌の覗《のぞ》き穴を通して、お玉を乗せた俥の先に動いて行くのと、町の曲り角へでも来た時に前後の車夫が呼びかわす掛声とで、広々としたところへ出て行くことを感じた。さんざん飽きるほど
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