沢山な蜻蛉《とんぼ》が秋の空気の中を飛んでいた。熊吉が姉を連れて行って見せたところは、直次の家から半町ほどしか離れていないある小間物屋の二階座敷で、熊吉は自分用の仮の仕事場に一時そこを借りていた。そこから食事の時や寝る時に直次の家の方へ通うことにしてあった。
「でも秋らしくなりましたね。駒形の家を思出しますね」
 と弟は言った。駒形の家とは、おげんの亡くなった伜《せがれ》が娵《よめ》と一緒にしばらく住んだ家で、おげんに取っても思出の深いところであった。
「どうかすると私はまだ船にでも揺られているような気のすることも有りますよ。直さんの家の廊下が船の甲板で、あの廊下から見える空が海の空で、家ごと動いているような気のして来ることも有りますよ」
 とまた弟はおげんに言って見せて、更に言葉をつづけて、
「姉さんも今度出ていらしって見て、おおよそお解りでしょう。直さんの家でも骨の折れる時ですよ。それは倹約にして暮してもいます。そういうことを想って見なけりゃ成りません。私も東京に自分の家でも見つけましたら、そりゃ姉さんに来て頂いてもようござんす。もう少し気分を落着けるようにして下さい」
「落着ける
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