さる。――何の心配することが要らすか。どうかすると、この母の眼には、あの智慧《ちえ》の足りない娘が御霊さまに見えることもある――」
 熊吉はしばらく姉を相手にしないで、言うことを言わせて置いたが、やがてまたおげんの方を見て、
「姉さんも小山の家の方に居て、何か長い間に見つけたものは有りませんでしたか。姉さんもお父さんの娘でしょう。あのお父さんは歌を読みました。飛騨《ひだ》の山中でお父さんの読んだ歌には、なかなか好いのが有りますぜ。短い言葉で、不器用な言い廻しで、それでもお父さんの旅の悲しみなどがよく出ていますよ。姉さんにもああいうことがあったら、そんなに苦しまずにも済むだろうかと思うんですが」
「俺は歌は読まん。そのかわり若い時分からお父さんの側で、毎日のようにいろいろなことを教わった。聞いて見ろや、何でも俺は言って見せるに――何でも知ってるに――」
 次第に戸の外もひっそりとして来た。熊吉は姉を心配するような顔付で、おげんの寝床の側へ来て坐った。熊吉は黙って煙草ばかりふかしていた。おげんの内部《なか》に居る二人の人が何時《いつ》の間にか頭を持上げた。その二人の人が問答を始めた。一人が何か独言《ひとりごと》を言えば、今一人がそれに相槌《あいづち》を打った。
「熊吉はどうした。熊吉は居ないか」
「居る」
「いや、居ない」
「いや、居る」
「あいつも化物《ばけもの》かも知れんぞ」
「化物とは言ってくれた」
「姉の気も知らないで、人を馬鹿にしてけつかって、そんなものが化物でなくて何だぞ」
 こういう二人の人は激しく相争うような調子にも成った。
「しッ――黙れ」
「黙らん」
「何故、黙らんか」
「何故でも、黙らん――」
 同じ人が裂けて、闘おうとした。生命の焔《ほのお》は恐ろしい力で燃え尽きて行くかのような勢を示した。おげんは自分で自分を制えようとしても、内部《なか》から内部からと押出して来るようなその力をどうすることも出来なかった。彼女はひどく嘆息して、そのうちに何か微吟して見ることを思いついた。ある謡曲の中の一くさりが胸に浮んで来ると、彼女は心覚えの文句を辿り辿り長く声を引いて、時には耳を澄まして自分の嘯《うそぶ》くような声に聞き入って、秋の夜の更けることも忘れた。
 寝ぼけたような鶏の声がした。
「ホウ、鶏が鳴くげな。鶏も眠られないと見えるわい」
 とおげんは言って見
前へ 次へ
全35ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング