こでいよいよ彼女も東京行を思立った。「小山さん、小山さん」と言って大切にしてくれる蜂谷ほどには、蜂谷の細君の受けも好くなくて、ややもすると機嫌《きげん》を損ね易《やす》いということも、一層おげんの心を東京へと急がせた。この東京行は、おげんに取って久しく見ない弟達を見る楽しみがあり、その弟達に逢《あ》ってこれから将来の方針を相談する楽みがあった。彼女はしばらくお新を手放さねば成らなかった。三月ばかり世話になった婆やにも暇を告げねばならなかった。東京までの見送りとしては、日頃からだの多忙《いそが》しい小山の養子の代りとして養子の兄にあたる人が家の方から来ることに成った。
 出発の前夜には、おげんは一日も離れがたく思う娘の側に居て、二人で一緒に時を送った。
「お新や、二人で気楽に話さまいかや。お母さんは横に成るで、お前も勝手に足でもお延ばし」
 とおげんは言って、誰に遠慮もない小山の家の奥座敷に親子してよく寛《くつろ》いだ時のように、身体を横にして見、半ば身体を起しかけて見、時には畳の上に起き直って尻餅《しりもち》でも搗《つ》いたようにぐたりと腰を落して見た。そしてその度に、深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「わたしは好きな煙草にするわいなし」
 とお新は母親の側に居ながら、煙草の道具を引きよせた。女持の細い煙管《きせる》で煙草を吸いつけるお新の手付には、さすがに年齢《とし》の争われないものがあった。
「お新や、お母さんはこれから独りで東京へ行って来るで、お前は家の方でお留守居するだぞや。東京の叔父さん達とも相談した上で、お前を呼び寄せるで。よしか。お母さんの側が一番よからず」
 とおげんが言ったが、娘の方では答えなかった。お新の心は母親の言うことよりも、煙草の方にあるらしかった。
 お新は母親のためにも煙草を吸いつけて、細く煙の出る煙管を母親の口に銜《くわ》えさせるほどの親しみを見せた。この表情はおげんを楽ませた。おげんは娘から勧められた煙管の吸口を軽く噛《か》み支えて、さもうまそうにそれを燻《ふか》した。子の愛に溺《おぼ》れ浸っているこの親しい感覚は自然とおげんの胸に亡くなった旦那のことをも喚《よ》び起した。妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬《しっと》を味わせられた切ない月日の方に、より多く旦那のことを思出すとは。おげんはそんな夫婦の間の不思議な結びつき
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