の宗教、彼れ何物ぞや、哲学としての哲学、彼れ何物ぞや、宗教を説かざるも生命を説かば、既に立派なる宗教にあらずや、哲学を談ぜざるも生命を談ぜば、既に立派なる哲学にあらずや、生命を知らずして信仰を知る者ありや、信仰を知らずして道徳を知る者ありや、生命を教ふるの外に、道徳なるものゝ泉源ありや、凡そ生命を教ふる者は、既に功利派にあらざるなり、凡そ生命を伝ふる者は、既に瞹眛派《あいまいは》にあらざるなり、凡そ生命を知るものは、既に高蹈派にあらざるなり、危言流行の今日、世人自から惑ふこと勿《なか》らんことを願ふなり。
 吾人をして去《さつ》て文芸上に於ける生命の動機を論ぜしめよ。
 文芸は宗教|若《もし》くは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり。文芸は思想と美術とを抱合したる者にして、思想ありとも美術なくんば既に文芸にあらず、美術ありとも思想なくんば既に文芸にあらず、華文妙辞のみにては文芸の上乗に達し難く、左《さ》りとて思想のみにては決して文芸といふこと能はざるなり、此点に於て吾人は非文学党の非文学見に同意すること能はず。先覚者は知らず、末派のポジチビズムに於て、文学をポジチーブの事業とするの余りに、清教徒の誤謬を繰返さんとするに至らんことを恐るゝなり。
 戯文世界の文学は、価値ある思想を含有せし者にあらざること、吾人と雖、之を視《み》ざるにあらず、然れども戯文は戯文なり、何ぞ特更《ことさら》に之を以て今の文学を責むるの要あらんや。吾人を以て之を見れば、過去の戯文が、華文妙辞にのみ失したるは、華文妙辞の罪にあらずして、文学の中に生命を説くの途を備へざりしが故なり、請ふ、少しく徳川氏の美文学に就きて、之を言はしめよ。
 すべての倫理道徳は必らず、多少、人間の生命に関係ある者なり。人間の生命に関係多きものは人間を益する事多き者にして、人間の生命に関係少なき者は、人間を益する事少なき者なり。徳川氏の時代にあつて、最も人間の生命に近かりしものは儒教道徳[#「儒教道徳」に傍点]なりしこと、何人も之を疑はざるべし。然れども儒教道徳は実際的道徳にして、未だ以て全く人間の生命を教へ尽したるものとは言ふべからず。繁雑なる礼法を設け、種々なる儀式を備ふるも、到底 Formality に陥るを免かれざりしなり、到底貴族的に流るゝを免かれざりしなり、之を要するに其の教ふる処が、人間の根本の生命の絃に触れざりければなり。其時代に於ける所謂美文学なるものを観察するに至りては、吾人更に其の甚しきを見る、人間の生命の根本を愚弄《ぐろう》すること彼等の如くなるは、吾人の常に痛惜する処なり。彼等は儀式的に流れたる、儒教道徳をさへ備へたるもの稀なり。彼等の多くは、卑下なる人情の写実家なり。人間の生命なるものは彼等に於ては、諧謔《かいぎやく》を逞《たくまし》ふすべき目的物たるに過ぎざりしなり、彼等は愛情を描けり、然れども彼等は愛情を尽さゞりしなり、彼等の筆に上りたる愛情は肉情的愛情のみなりしなり、肉情よりして恋愛に入るより外には、愛情を説くの道なかりしなり、プラトーの愛情も、ダンテの愛情も、バイロンの愛情も、彼等には夢想だもすること能はざりしなり。彼等は忠孝を説けり、然れども彼等の忠孝は、寧ろ忠孝の教理あるが故に忠孝あるを説きしのみ、今日の僻論家が敕語《ちよくご》あるが故に忠孝を説かんとすると大差なきなり、彼等は人間の根本の生命よりして忠孝を説くこと能はざりしなり。彼等は節義を説けり、善悪を説けり、然れども彼等の節義も、彼等の善悪も、寧ろ人形を并《なら》べたるものにして、人間の根本の生命の絃に触れたる者にあらざるなり。謂《い》ふ所の勧善懲悪なるものも、斯る者が善なり、斯るものが悪なりと定めて、之に対する勧懲を加へんとしたる者にして、未だ以て真正の勧懲なりと云ふ可からず。真正の勧懲は心の経験の上に立たざるべからず、即ち|内部の生命《インナーライフ》の上に立たざるべからず、故に内部の生命を認めざる勧懲主義は、到底真正の勧懲なりと云ふべからざるなり。彼等は世道人心を説けり、為《な》すあるが為めに文を草すべきを説けり、世を益するが為めに文を草すべきを説けり、然れども彼等の世道人心主義も、到底偏狭なるポジチビズムの誤謬を免かれざりしなり、未だ根本の生命を知らずして、世道人心を益するの正鵠《せいこく》を得るものあらず。要するに彼等の誤謬は、人間の根本の生命を認めざりしに因するものなり、読者よ、吾人が五十年[#「五十年」に傍点]の人生に重きを置かずして、人間の根本の生命を尋ぬるを責むる勿《なか》れ、読者よ、吾人が眼に見うる的《てき》の事業に心を注がずして、人間の根本の生命を暗索するものを重んぜんとするを責むる勿れ、読者よ、吾人の中に或は唯心的に傾き、或は万有的に傾むく
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