者の誤謬は、多言を須《もち》ひずして明白なるべし。
文芸上にて之を論ずれば、所謂写実派なるものは、客観的に内部の生命を観察すべきものなり。客観的に内部の生命の百般の顕象を観察する者なり。此目的の外に嘉讃すべき写実派の目的はあらざるなり。世道人心を益するといふ一派の写実論も、此目的を外《はづ》れたらば何等の功益もあらざるなり。勧善懲悪を目的とする写実派も、此目的を外れたらば何の勧懲もあらざるなり。為すあるが為と言ひ、世を益するが為と言ふも、真正に此の目的に適《かな》はするより外なきなり。所謂理想派なるものは、主観的に内部の生命を観察すべきものなり。主観的に内部の生命の百般の顕象を観察すべき者なり。いかに高大なる極致を唱ふるとも、いかに美妙なる理想を歌ふとも、この目的の外に理想派の嘉讃すべき目的はあらざるなり。
理想とは何ぞや。理想派とは何ぞや。吾人は此小論文に於て、理想とは何ぞやを説かざるべし。然れども爰に一言せざるべからざることは、文芸の上にて言ふところのアイデアなる者は、形而上学に於て言ふところのアイデアとは、名を同うして物を異にする者なること之なり。形而上学にてアイデアリスト(唯心論者)といふものは、文芸上にてアイデアリスト(理想家)といふところの者とは全く別物[#「別物」に傍点]なり。
文芸上にて理想派と謂ふところのものは、人間の内部の生命を観察するの途に於て、極致を事実《リアリチー》の上に具躰の形となすものなり。絶対的にアイデアなるものを研究するは形而上学の唯心論なれども、そのアイデアを事実《リアリチー》の上に加ふるものは文芸上の理想派なり。ゆゑに文芸上にては殆どアイデアと称すべきものはあらざるなり、其の之あるは、理想家が暫らく人生と人生の事実的顕象を離れて、何物にか冥契《めいけい》する時に於てあるなり、然れども其は瞬間の冥契なり、若しこの瞬間にして連続したる瞬間ならしめば、詩人は既に詩人たらざるなり、必らず組織的学問を以て研究する哲学者になるなり。詩人豈に斯の如き者ならんや。
瞬間の冥契とは何ぞ、インスピレーシヨン是なり、この瞬間の冥契ある者をインスパイアドされたる詩人とは云ふなり、而して吾人は、真正なる理想家なる者はこのインスパイアドされたる詩人の外には、之なきを信ぜんとする者なり。インスピレーシヨンを知らざる理想家もあらん、宗教の何たるを確認せざる理想家もあらん、然れども吾人は各種の理想家の中に就きて、斯の如きインスピレーシヨンを受けたる者を以て最醇最粋のものと信ぜんとするなり。インスピレーシヨンとは何ぞ、必らずしも宗教上の意味にて之を言ふにあらざるなり、一の宗教(組織として)あらざるもインスピレーシヨンは之あるなり。一の哲学なきもインスピレーシヨンは之あるなり、畢竟《ひつきやう》するにインスピレーシヨンとは宇宙の精神即ち神なるものよりして、人間の精神即ち内部の生命なるものに対する一種の感応に過ぎざるなり。吾人の之を感ずるは、電気の感応を感ずるが如きなり、斯の感応あらずして、曷《いづく》んぞ純聖なる理想家あらんや。
この感応は人間の内部の生命を再造する者なり、この感応は人間の内部の経験と内部の自覚とを再造する者なり。この感応によりて瞬時の間、人間の眼光はセンシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出《たちいづ》るものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。
再造せられたる生命の眼を以て観る時に、造化万物|何《いづ》れか極致なきものあらんや。然れども其極致は絶対的のアイデアにあらざるなり、何物にか具躰的の形を顕はしたるもの即ち其極致なり、万有的眼光には万有の中に其極致を見るなり、心理的眼光には人心の上に其極致を見るなり。
[#地から2字上げ](明治二十六年五月)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文學界 五號」文學界雜誌社
1893(明治26)年5月31日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2004年10月31日作成
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