流客を追ひ回《か》へすことあるは。人間界の心池の中に霊活なる動物の、心機妙転の瞬時の変化も、或は蓮花開発に似たるところあり。
風静かに気沈み万籟《ばんらい》黙寂たるの時に、急卒一響、神装を凝《こ》らして眼前《めのまへ》に亢立《かうりつ》するは蓮仙なり、何の促すところなく、何の襲ふところなく、悠然泥上に佇立《ちよりつ》する花蕾の、一瞬時に化躰して神韻高趣の佳人となるは、驚奇なり、然《しか》り驚奇なり、極めて普通なる驚奇なり、もし花なく変化なきの国あらば、之を絶代の奇事と曰はむ。絶代の奇事にして奇事ならざるもの、自然の妙力が世眼に慣れて悟性を鈍くしたるの結果とや言はむ。
人間の心機に関して深く観察する時は、この普通なる驚奇の変化最も多く、各人の歴史に存するを見る。然りこの変化の尤も多くして尤も隠れ、尤も急にして尤も不可見《みるべからざる》のもの、他の自然界の物に比すべくもあらざるものあるは、人生の霊活を信ずるものゝ苟《いやし》くも首肯《しゆこう》せざるはなきところなり。悪を悪なりとし、善を善なりとし、不徳を不徳とし、非行を非行とするは、俗眼だも過《あやま》つことなきなり、但《たゞ》夫れ悪の外被に蔽はれたる至善あり、善の皮肉に包まれたる至悪あるを看破するは、古来哲士の為難《なしがた》しとするところ、凡俗の容易に企つる能《あたは》ざる難事なり。もし夫れ悪の善に変じ、善の悪に転じ、悪の外被に隠れたる至善の躍り出で、善の皮肉に蔵《かく》れたる至悪の跳《は》ね起るが如き電光一閃の妙変に至りては、極めて趣致あるところ、極めて観易からざるところ、達士も往々この境に惑ふ。
人間の無為は極めて暗黒なるところと極めて照明なるところとあり。その無心の域《さかひ》に入れりとすべきは、生涯の中《うち》に幾日もあらず。誰か能《よ》く快楽と苦痛の覊束《きそく》を脱離し得たるものぞ。誰か能く浄不浄の苦闘を竟極《きやうきよく》し得たるものぞ。誰か能く真《まこと》に是非曲直の鉄鎖を断離し得たるものぞ。唯だ夫れ人間に賢愚あり、善悪あり、聖汚あるは、その暗黒と照明との時間の「長さ」を指すべきのみ。いかに公明正大を誇負する人ありとも、我は之を諾する能はず、畢竟するにその所謂《いはゆる》公明なる所以《ゆゑん》のものは、暗黒の「影」の比較的に薄きに過ぎず、照明なる時間の比較的に長きに過ぎず、真の大知、大能、大
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