月水の絶《たえ》たることを説けり。
こゝにも亦た因果の道法を隠微の中《うち》に示顕して至妙に達せり。月水の絶たるは、仙童に訊《と》ふまでもなく懐胎の徴《しるし》なり。而してこの懐胎は八犬子を生む為にあらずして、その実《じつ》、宿因の満潮を示したるものなり。これよりして強く張りたる弦は弛《ゆる》みはじめたるなり。その体《たい》は人にして其頭は犬なりと云ふは、即ち是れ宿因の絶頂に登りたるを指すにやあらむ。
更に進みて仙童に言はせたる予言の中《うち》に、「今この八《やつ》の子を遺《のこ》せり。八は則《すなはち》八房の八を象《かたど》り。又法華経の巻《まき》の数《かず》なり。」とあるに至りては、明らかに業と法との両者の対峙して、伏姫に臨めるを示し、遂に其宿因よりして却つて八英雄を得るに至らしめたる禍福の理法、益《ます/\》明らかなり。同じ筆意にて成れる文字この後《のち》にも見えたり、曰く「こは不思議や。と取なほして。とさまかうさま見給ふに。数とりの珠に顕れたる。如是畜生発菩提心の。八《やつ》の文字は跡もなく。いつの程にか仁義礼智忠信孝悌となりかはりて。いと鮮《あざやか》に読まれたり。」
更に又た、
「やよ八房。わがいふ事をよく聞けかし。よに幸《さち》なきもの二ツあり。又幸あるものふたつあり。則《すなはち》吾儕《わなみ》と汝《なんぢ》なり。己れは国主の息女《むすめ》なれども。義を重しとするゆゑに。畜生に伴《ともなは》る。これこの身の不幸なり。しかれども穢《けが》し犯されず。ゆくりなくも世を遯《のが》れて。自得の門に三宝の引接《いんぜう》を希《こひねが》ひしかば。遂に念願成就して。けふ往生の素懐を遂《とげ》なん。…………又《また》只《たゞ》汝は畜生なれども。国に大功あるをもて。軈《やが》て国主の息女《むすめ》を獲たり。人畜《にんちく》の道|異《こと》にして。その欲を得遂げざれども。耳に妙法の尊《たと》きを聴《きゝ》て。…………おなじ流に身を投《なげ》て。共に彼岸《かのきし》に到れかし。」
といふに到ては、平等無差別、遙かに人間を離れて菩薩の心備はれり。誠心は隠すところなく八房に与へたり、而して不穢不犯、玲瓏《れいろう》たるチヤスチチイの処女、禍福の外に卓立し、運命の鉄柵を物ともせざるは、実《げ》にこの馬琴の想児なり。
最後に護身刀《まもりがたな》を引抜て真一文字に掻切《かききり》たる時に、一朶《いちだ》の白気閃めき出で、空に舞ひ上りたる八珠「粲然《さんぜん》として光明《ひかり》をはな」つに及びて、「歓《よろこば》しやわが腹に。物がましきはなかりけり。神の結びし腹帯も。疑ひも稍《やゝ》解《とけ》たれば。心にかゝる雲もなし。」云々《しか/″\》と云ふに至りては、明らかに因果の結局をあらはして、八房と伏姫との関係を閉ぢたり。
要するに伏姫は因果の運命にその生涯を献じたる者なり。因果は万人に纏ひて悲苦を与ふるものなるに、万人は其|繩羅《じようら》を脱すること能はずして、生死の巷に彷徨《はうくわう》す、伏姫は自ら進んでこの大運命に一身を諾《ゆだ》ねたるものなり。義[#「義」に白丸傍点]は彼をこの大運命の囚獄に連れ行きたる囚吏なり、宿因は八房に代表せられて、彼を破滅に導きたるなり。破滅は又た幸福を里見の家に臨《きた》らせたるなり。凡《すべ》て是等の錯綜せる哲理の外に、晃々としてこの大作を輝かすものこそあれ。そを何ぞと曰ふに、伏姫の純潔なり。始めより終りまでの純潔なり。その純潔の誠実は通じて非類の八房を成仏せしめしは、尊ふとしと言ふも愚ろかなり。
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わが伏姫を論ぜんと企てしは、その純潔[#「純潔」に白丸傍点]を観察するに止《とゞ》めんとせしなるに、図らずも馬琴の哲学に入りて因果論|等《など》をほのめかすに至りぬ。浅学の身にして文学上の大問題に蹈入りたるは深く自ら恥づるところ。読者もしこの心して読まざれば、或は我が精神に違《たが》はむことを恐る。
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[#地から2字上げ](明治二十五年十月)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「女學雜誌 三二九號」女學雜誌社
1892(明治25)年10月8日
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月6日作成
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