他の多くの作家が為す如く惑溺癡迷《わくできちめい》の人物に加ふる事をせず。極めて無邪気にして極めて清潔なる一処女に附き纏はしむ。悪魔の魅力を仮用して高潔なる舞台を濁穢《ぢよくゑ》する泰西作家の妙腕は、即ち馬琴が八房の中《うち》にあり。始めは伏姫徐々として八房の後《のち》に従へり、後には八房伏姫を背にして飛鳥の如くに走れり、凡悩の人間を魅するの状を写す何ぞ一に斯《かく》の如く霊なる。輝武《てるたけ》健馬に鞭ちて逐《お》へども遂に及ばず、凡悩の魔力何んぞ人間の及ぶところならんや。雲霧深く籠《こ》めて、山洞又た人力を以て達すべき道なし、輝武の眼には川一条なり、然《さ》れども霊界の幻想を以て曰へば、川一条は人界と幻界との隔てなり。「横ざまに推倒されて」以下の文章深く味ふべし。
 役行者《えんのぎやうじや》は蓋し「天命」の使者なるべし。是《これ》に就きて言ふべき事あれど本題を離るゝ事遠ければ茲《こゝ》には言はず、唯だ読者と共に記憶すべきは、伏姫が幼少の時に行者より得たる珠数の事なり。馬琴の深く因果の理法を信ずるや、普通の作家の如く行《ぎやう》の奇跡を以て伏姫の業因を断たしむることなく、却《かへ》つて彼《かの》八行の珠玉を与へて、伏姫の運命の予言者とならしめ指導者とならしめたるもの、支那小説の古套とは言へ馬琴の妙筆にあらざれば、斯の如き照応を得ること能はざらむ。
 次に観察すべきは富山洞《とやまのほら》なり。富山洞はいかなる種類の幻界なるべきや。
 人間世界を因果転輪の車の上に立つものとせば、富山は馬琴の想像中にありて因果の車の軸なり。因果の理法の盈満《コンプリケイシヨン》を示したるものは富山洞《とやまのほら》のトラヂヱヂイにして、富山はこの理法をあらはしたる舞台なり。伏姫は世を捨てつ世に捨てられて此山に入れり。この山の真相を言へば、一方に経文あり。一方に凡悩あり。一方に仙縁あり。一方に毒業あり。一方に無染あり。一方に無慾あり。一方に菩提あり。一方に畜生あり。表面を仏界なりとせば、裡面《りめん》は魔界なり。表面を魔界なりとすれば、裡面は仏界なり。仏が魔か、魔が仏か、一なるが如く他なるが如く、紛乱錯綜いづれをいづれと定め難し。斯くの如くにして業因業果の全く盈満《えいまん》するまでは、一箭《いつせん》の飛んで勢の尽くるまでは、落ちざるが如きを示せり。これ幻界なり。権者《ごんじや》の
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング