罪と罰(内田不知庵譯)
北村透谷

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)沈痛《ちんつう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七|囘《くわい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+加」、第3水準1−14−93]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 沈痛《ちんつう》、悲慘《ひさん》、幽悽《ゆうせい》なる心理的小説《しんりてきせうせつ》「罪《つみ》と罰《ばつ》」は彼《か》の奇怪《きくわい》なる一大巨人《いちだいきよじん》(露西亞《ロシア》)の暗黒《あんこく》なる社界《しやくわい》の側面《そくめん》を暴露《ばくろ》して餘《あま》すところなしと言《い》ふべし。トルストイ、ツルゲネーフ等《とう》の名《な》は吾人《ごじん》久《ひさ》しく之《これ》を聞《き》けども、ドストイヱフスキーの名《な》と著書《ちよしよ》に至《いた》りては吾文界《わがぶんかい》に之《これ》を紹介《せうかい》するの功《こう》不知庵《フチアン》に多《おほ》しと言《い》はざる可《べ》からず。
 露國《ロコク》は政治上《せいぢぜう》に立《たち》て世界《せかい》に雄視《ゆうし》すと雖《いへど》もその版圖《はんと》の彊大《きようだい》にして軍備《ぐんび》の充實《じゆうじつ》せる丈《だけ》に、民人《みんじん》の幸福《こうふく》は饒《ゆたか》ならず、貴族《きぞく》と小民《せうみん》との間《あいだ》に鐵柵《てつさく》の設《もう》けらるゝありて、自《おのづ》からに平等《びようどう》を苦叫《くけう》する平民《へいみん》の聲《こゑ》を起《おこ》し、壯烈《そうれつ》なる剛腸《ごうちよう》屡《しばし》ば破天荒《はてんこう》の暴圖《ぼうと》を企《くわだ》て、シベリアの霜雪《そうせつ》をして自然《しぜん》の威嚴《いげん》を失《うしな》はしむ。
 乳《ちゝ》を混《こん》ぜざる濃茶《のうちや》を喜《よろこ》び、水《みづ》を割《わ》らざる精酒《せいしゆ》を飮《の》み、沈鬱《ちんうつ》にして敢爲《かんい》、堅《かた》く國立《こくりつ》の宗教《しゆうきよう》を持《ぢ》し、深《ふか》く祖先《そせん》の業《げふ》を重《おも》んず、工業《こうげう》甚《はなは》だ盛《さかん》ならざるが故《ゆゑ》に中等社界《ちうとうしやくわい》の存《そん》するところ多《おほ》くは粗朴《そぼく》なる農民《のうみん》にして、思《おも》ひ狹《せま》く志《こゝろざし》確《かく》たり。然《しか》れども別《べつ》に社界《しやかい》の大弊根《たいへいこん》の長《なが》く存《そん》するありて、壯年有爲《そうねんゆうい》の士《し》をして徃々《おう/\》にして熱火《ねつくわ》を踏《ふ》み焔柱《ゑんちう》を抱《いだ》くの苦慘《くさん》を快《こゝろよし》とせしむる事《こと》あり。佛人《フツジン》の如《ごと》くに輕佻《けいてふ》動《うご》き易《やす》きにあらず、默念焦慮《もくねんせうりよ》して毒刄《どくじん》を懷裡《かいり》に蓄《たくは》ふるは、實《じつ》に露人《ロジン》の險惡《けんあく》なる性質《せいしつ》なり。
「罪《つみ》と罰《ばつ》」は實《じつ》にこの險惡《けんあく》なる性質《せいしつ》、苦慘《くさん》の實况《じつけう》を、一個《いつこ》のヒポコンデリア漢《かん》の上《うへ》に直寫《ちよくしや》したるものなるべし。ドスト氏《し》は躬《みづか》ら露國《ロコク》平民社界《へいみんしやくわい》の暗澹《あんたん》たる境遇《けふぐふ》を實踐《じつせん》したる人《ひと》なり、而《しか》して其《その》述作《じゆつさく》する所《ところ》は、凡《およ》そ露西亞人《ロシアジン》の血痕《けつこん》涙痕《るいこん》をこきまぜて、言《い》ふべからざる入神《にうしん》の筆語《ひつご》を以《も》て、虚實《きよじつ》兩世界《りようせかい》に出入《しゆつにう》せり。ヒポコンデリア之《こ》れいかなる病《やまい》ぞ。虚弱《きよじやく》なる人《ひと》のみ之《これ》を病《や》むべきか、健全《けんぜん》なる人《ひと》之《これ》を病《や》む能《あた》はざるか、無學《むがく》之《これ》を病《や》まず却《かへ》つて學問《がくもん》之《これ》を引由《いんゆう》し、無知《むち》之《これ》を病《や》まず、知識《ちしき》あるもの之《これ》を病《や》む事《こと》多《おほ》し。人生《じんせい》の恨《うらみ》、この病《やまい》の一大要素《いちだいようそ》ならずんばあらじ。
 開卷第一《かいかんだいゝち》に、孤獨幽棲《こどくゆうせい》の一少年《いつしようねん》を紹介《しようかい》し、その冷笑《れいしよう》と其《その》怯懦《きようだ》を寫《うつ》し、更《さら》に進《すゝ》んで其《その》昏迷《こんめい》を描《ゑが》く。襤褸《らんる》を纏《まと》ひたる一大學生《いつだいがくせい》、大道《だいどう》ひろしと歩《あ》るきながら知友《ちゆう》の手前《てまへ》を逃《に》げ隱《かく》れする段《だん》を示《しめ》す。
 高利貸《こうりかし》の老婦人《ろうふじん》、いかにも露西亞《ロシア》は露西亞《ロシア》らしく思《おも》はれ、讀者《どくしや》をして再讀《さいどく》するに心《こゝろ》を起《おこ》さしむ。居酒屋《いざかや》に於《お》ける非職官人《ひしよくくわんじん》の懺悔《ざんげ》?自負《じふ》?白状《はくじやう》と極《きはめ》て面白《おもしろ》し。その病妻《びようさい》の事《こと》を言《い》ひて、
[#ここから1字下げ]
「所《ところ》が困《こま》つた事《こと》にア身躰《からだ》が惡《わる》く、肺病《はいびよう》と來《き》てゐるから僕《ぼく》も殆《ほと》んど當惑《とうわく》する僕《ぼく》だつて心配《しんぱい》でならんから其《その》心配《しんぱい》を忘《わす》れやうと思《おも》つて、つい飮《の》む、飮《の》めば飮《の》むほど心配《しんぱい》する。何《なん》の事《こと》アねへ態々《わざ/\》心配《しんぱい》して見《み》たさに飮《の》む樣《よう》なもんで一盃《いつぱい》が一盃《いつぱい》と重《かさ》なれば心配《しんぱい》も重《かさ》なつて來《く》る」
[#ここで字下げ終わり]
何《なん》ぞ醉漢《すいかん》の心中《しんちう》を暴露《ばくろ》するの妙《みよう》なる。更《さら》に進《すゝ》んで我妻《わがつま》を説《と》き我娘《わがむすめ》を談《だん》じ、娘《むすめ》が婬賣《いんばい》する事《こと》まで、慚色《はづるいろ》なく吐《は》き出《い》づるに至《いた》りては露國《ロコク》の社界《しやかい》亦《ま》た驚《おどろ》くべきにあらずや。而《しか》して其《そ》の再官《さいくわん》の事《こと》に説《と》き及《およ》ぶや、
[#ここから1字下げ]
「又《ま》た或時《あるとき》は僕《ぼく》が寢《ね》て仕舞《しま》つてからカテリーナ、イワーノウナは何《なん》だか嬉《うれ》しくて堪《たま》らなくなつたと見《み》えて一週間前《いつしうかんぜん》に大喧嘩《おほげんくわ》した事《こと》ア忘《わす》れちまつてア………フ………を呼《よ》んで※[#「口+加」、第3水準1−14−93]※[#「口+非」、第4水準2−4−8]《こうひい》なんぞを馳走《ちそう》しながら荐《しき》りに色《いろ》んな餘計《よけい》を附《つ》けちやア亭主《ていしゆ》の自慢《じまん》をする」
[#ここで字下げ終わり]
と女性《じよせい》の無邪氣《むじやき》なる輕薄《けいはく》を笑《わら》ひ、更《さら》に一旦《いつたん》與《あた》へたる財貨《ざいか》を少娘《こむすめ》の筐中《きようちう》より奪《うば》ひて酒亭一塲《しゆていいちじやう》の醉夢《すいむ》に附《ふ》するの條《じよう》を説《と》かしめ遂《つい》に再《ふたゝ》び免職《めんしよく》になりし事《こと》を言《い》ひ、
[#ここから1字下げ]
唯《たゞ》僕《ぼく》が心配《しんぱい》でならぬは家内《かない》の眼《め》――眼《め》だ。殊《こと》に頬《ほう》が紅《べに》を點《さ》した樣《よう》になつて呼吸《こきう》が忙《せわ》しくなる。僕《ぼく》之《これ》を見《み》るのが實《じつ》に辛《つら》い。先生《せんせい》は家内《かない》と同《おな》じ疾《やまい》のものが挑動《いらだ》つ時《とき》の呼吸《こきう》を聞《きい》た事《こと》があるかネ。それはそれは堪《たま》つたもんじやない。
[#ここで字下げ終わり]
とその家庭《かてい》の苦痛《くつう》を白状《はくじやう》し、遂《つい》にこの書《しよ》の主人公《しゆじんこう》、後《のち》に殺人《さつじん》の罪人《ざいにん》なるカ……イ……を伴《ともな》ひて其《その》僑居《けうきよ》に歸《かへ》るに至《いた》る一節《いつせつ》極《きは》めて面白《おもしろ》し。
(五十六頁)人間《にんげん》實《じつ》にくだらぬもの。と、この病者《びやうしや》の吐《は》く言葉《ことば》の中《うち》に大《おほい》なる哲理《てつり》あり。下宿屋《げしゆくや》の下婢《かひ》が彼《かれ》を嘲《あざ》けりて其《その》爲《な》すところなきを責《せ》むるや「考《かんが》へる事《こと》を爲《な》す」と云《い》ひて田舍娘《いなかむすめ》を驚《おどろ》かし、故郷《こきやう》よりの音信《いんしん》に母《はゝ》と妹《いもと》との愛情《あいじやう》を示《しめ》して、然《しかれ》どもこの癖漢《へきかん》の冷々《れい/\》たる苦笑《くせう》を起《おこ》すのみなる事《こと》を示《しめ》し、實際家《じつさいか》を卑《いや》しむの念《ねん》をあらはし、「でなくば生命《いのち》を捨《す》てんのみ。運命《うんめい》に服從《ふくじゆう》し、百事《ひやくじ》を放擲《はうてき》し」、云々《しか/″\》の語《ご》を發《はつ》せしむるに至《いた》る。
「必然《ひつぜん》の惡《あく》」を解釋《かいしやく》して遊歩塲《いうほぢやう》の一少女《いつせうぢよ》を點出《てんしゆつ》しかの癖漢《へきかん》の正義《せいぎ》を狂欲《きやうよく》する情《じやう》を描《えが》き、或《あるひ》は故郷《こきやう》にありしときの温《あたゝ》かき夢《ゆめ》を見《み》せしめ、又《ま》た生活《せいくわつ》の苦戰塲《くせんぢやう》に入《い》りて朋友《はうゆう》に一身《いつしん》を談《だん》ずる處《ところ》あり。第六囘《だいろくくわい》に至《いた》りて始《はじ》めて、殺人《さつじん》の大罪《だいざい》なるか否《いな》かの疑問《ぎもん》を飮食店《いんしよくてん》の談柄《だんぺい》より引起《ひきおこ》し、遂《つい》に一刹那《いつせつな》を浮《うか》び出《いだ》さしめて、この大學生《だいがくせい》何《なん》の仇《あだ》もなき高利貸《こうりかし》を虐殺《ぎやくさつ》するに至《いた》る。第《だい》七|囘《くわい》は其《その》綿密《めんみつ》なる記事《きじ》なり。讀去《よみさ》り讀來《よみきた》つて纖細妙微《せんさいみようび》なる筆力《ひつりよく》まさしくマクベスを融解《ゆうかい》したるスープの價《あたひ》はあるべし。是《これ》にて罪《つみ》は成立《せいりつ》し、第《だい》八|囘《くわい》以後《いご》はその罪《つみ》によりていかなる「罰《ばつ》」精神的《せいしんてき》の罰《ばつ》心中《しんちう》の鬼《おに》を穿《うが》ち出《い》でゝ益《ます/\》精《せい》に益《ます/\》妙《めう》なり。余《よ》は多言《たげん》するを好《この》まず。嘗《か》つてユーゴのミゼレハル、銀器《ぎんき》を盜《ぬす》む一條《いちでう》を讀《よ》みし時《とき》に其《その》精緻《せいち》に驚《おどろ》きし事《こと》ありしが、この書《しよ》載《の》するところ恐《おそ》らく彼《か》の倫《りん》にあらざるべし。余《よ》は不知庵《フチアン》がこの書《しよ》を我《わが》文界《ぶんかい》に紹介《せうかい》したる勇氣《ゆう
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング