トルストイ伯
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)聖《きよ》く
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)形勢|俄《には》かに
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(例)※[#「門<言」、第4水準2−88−64]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)悉《こと/″\》く
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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「聖《きよ》くまことなる心、無極の意と相繋がる意、世の雑染を離れて神に達するの眼《がん》、是等の三要素を兼有する詩人文客の詞句を聴くは楽しむ可きかな。」
とは英人某がトルストイ伯を崇《あが》めたる賛辞なり。露国が思想の発達に於て欧洲諸隣国に後《おく》れたる事、既に久し。其記者が仏独の旧形を摸倣するに甘んじて、創造の偉功を顕はさゞる事も、亦《ま》た已《すで》に久しと云ふべし。然《しか》れども形勢|俄《には》かに一変し、自国の胸底より文学の新気運湧き出でゝ、今や其勢力充実して殆ど全欧を凌駕せんとするに至れり。而《しか》して斯《かゝ》る気運を喚起せしめたるもの種々あるべしと雖《いへども》、トルストイ伯の出現こそ、露文学の為に万丈の光焔を放つものなれ。彼は露国の平民的生活を描く作家なり、彼は明らかに吾人に向つて、露国には中等民族あらず、貴族と平民のみなることを示すなり。
露国の農民
は、徒《いたづ》らに西部文明の幻影を追随して栄華を春日《しゆんじつ》の永きに傲《ほこ》る貴族者流と、相離るゝ事甚だ遠し。彼等は聖書を愛読し、宗教思想に富み、日常の業務に満足して、敢て虚栄の影を追はず、或時はむしろ迷信に陥り易く、宗教に伴へる在来の悪弊も亦《また》少なからず。然れどもトルストイ伯は是等の卑野なる農民を愛する事、慾情に耽惑せる上流の人に比して、幾層の深きをあらはせり。げに露西亜《ロシア》の農民はあはれなる生活を送るもの多く、酸苦|交《こもご》もせまれども能《よ》く耐《こら》へ、能く忍ぶは、神の最後のまつりごとに希望を置くと見えたり。而してトルストイ伯の如きは自《みづか》ら先達《せんだつ》となりて、是等の農民を救ひつゝあるなり。其の旧作の中《うち》に言へることあり、曰く「怖れ惑ふ事なかれ、我等が苦痛は一時のものなり、我等が永遠の生命《いのち》は何物と雖、奪ふ事能はざるべし」と。再び曰く「何事も神の聖意より出でざるはなし、死も生も」と。蓋《けだ》し露国の農民の信仰を代表する者にして、死も自然の者なれば、刺《はり》多き者として悪《にく》まれはせで、極めて美くしき者とまで彼等の心には映るなり。「神は彼女を取り去れり、彼女が至るべきところは、彼女の如き美くしき心ある者ならねばかなふまじきによりてなり、彼女の死はいたむべきものならず」と言ふも、亦たこの平民的詩人なり。吾人はトルストイ伯によりて、露国の平民を知るを得つ、彼等が鞏固《きようこ》なる宗教上の観念を涵養《かんやう》しつゝあるを見て、露西亜の将来に望むところ多からざるを得ず。
トルストイ伯は理想派詩人にはあらず、彼は理想を抱ける実際派なり、何となれば彼が写すところ、公平無私に農民の状態を描出し、其欠所を隠蔽することを為《な》さゞればなり。もし彼が貴族の家に生れ、顕栄の位地に立つべき身を以て、農民を愛撫し、誠信を以て世に屹立《きつりつ》するに至りたる来歴を問はゞ、
彼は長く生命を疑ひしなり。
彼が出生を尋ぬれば、千八百二十八年のことなりしとぞ。貴族の栄華は、彼をして虚《むな》しき世のものをあさりめぐるの外《ほか》に楽しみとてはあらずと、思はしめにき。爵位の如き、娯楽の如き、学芸文事|悉《こと/″\》く一たびは彼を迷はせしことあれども、遂《つひ》に彼を奴僕となせるものあらざりき。人生彼に向つて常に暗惻たり、何の為に、何の故に、人は世に生息するやと疑ひ惑ひつゝ、月日を暮らす事多かりき。人生は神が玩弄《ぐわんろう》する為に製作したる諧謔《かいぎやく》にあらずやとは、彼がその頃胸間に往来しける迷想なりき。彼は世を教へんとて、世を救はんとて著作をなせり、然れども著作の真意すでに誤りたれば、世の人はさておき、己れを安《やす》むるの効《かう》もあらず。彼は悲しめり、然り、彼は迷想の極にのぼりて、今は自殺の外に、万事を決し疑惑を解くものあらずなりぬ。然れども伯は※[#「門<言」、第4水準2−88−64]冥《ぎんめい》なる迷想の中《うち》より、生活の一|秘鑰《ひやく》を覚りはじめたり。「神よ爾《なんぢ》は我等を爾の為に造りたまへり、故に我等は爾を得るまでは我等の心に安みを得る能はず」と言へりし
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