「油地獄」を読む
(〔斎藤〕緑雨著)
北村透谷
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《》:ルビ
(例)揮《ふる》ふ
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(例)其|帶《たい》を
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(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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(例)とつ/\
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刑鞭を揮《ふる》ふ獄吏として、自著自評の抗難者として、義捐《ぎえん》小説の冷罵者として、正直正太夫の名を聞くこと久し。是等の冷罵抗難は正太夫を重からしめしや、将《は》た軽からしめしや、そは茲《こゝ》に言ふ可きところならず、余は「油地獄」と題する一種奇様の小説を得たるを喜び、世評既に定まれりと告ぐる者あるにも拘《かゝは》らず、敢て一言を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]まんとす。
「油地獄」は「小説評註」と、「犬蓼《いぬたで》」とを合はせ綴ぢて附録の如くす。「小説評註」は純然たる諷刺《サタイア》にして、当時の文豪を罵殺せんとする毒舌紙上に躍如たり。然《しか》れども其諷刺の原料として取る所の、重に文躰にありしを以《も》て見れば、善く罵りしのみにして、未だ敵を塵滅するの力あらざりしを知るに足らむ。
「油地獄」と「犬蓼」とは結構を異にして想膸一なり。駒之助と貞之進其地位を代へ、其境遇を代ふれば貞之進は駒之助たるを得可く、駒之助は貞之進たるを得べし。然り、駒、貞、両主人公は微かに相異なるを認るのみ、然れども此暗合を以て著者の想像を狭しと難ずるは大早計なり、何となれば著者の全心は、広く想像を構へ、複雑なる社界の諸現象を映写し出《い》でんとにはあらで、或一種の不調子《インコンシステンシー》、或一種の弱性《フレールチイ》を目懸けて一散に疾駆《しつく》したるなればなり。一種の不調子《インコンシステンシー》とは何ぞ。曰く、現社界が抱有する魔毒、是なり。一種の弱性とは何ぞ。過去現在未来を通ずる人間の恋愛に対する弱点なり。
緑雨《りよくう》は巧に現社界の魔毒を写出《しやしゆつ》せり。世々良伯《せゝらはく》は少しく不自然の傾きを示すと雖《いへども》、今日の社界を距《さ》る事甚だ遠しとは言ふ可らず。栗原健介は極めて的実なり、市兵衛の如き、阿貞《おさだ》の如き、個々皆な生動す。而《しか》して美禰子と駒之助に至れば照応甚だ極好。深く今日の社界を学び、其奥底に潜める毒竜を捉《と》らへ来つて、之を公衆の眼前に斬伐《ざんばつ》せんとの志か、正太夫。
何《いづ》れの社界にも魔毒あり。流星怪しく西に飛ばぬ世の来らば、浅間の岳の火烟全く絶ゆる世ともならば、社界の魔毒全く其|帶《たい》を絶つ事もあるべしや。雲黒く気重く、身|蒸《む》され心|塞《ふさ》がれ、迷想|頻《しきり》に蝟集《ゐしふ》し来る、これ奇なり、怪なり、然れども人間遂にこれを免かること難し。黒雲果して魔か、大気果して毒か、肉眼の明を以て之を争ふは詩人にあらざるなり。黒雲|悉《こと/″\》く魔なるに非ず、大気悉く毒なるにあらず、啻《たゞ》黒雲に魔あり、大気に毒ある事を難ぜんとするは、実際世界を見るも実世界以外を見ること能はざる非詩性論者の業として、放任して可なり。
吾人《われら》は非精無心の草木と共に生活する者にあらず。慾に荒《す》さび、情に溺れ、癡《ち》に狂する人類の中に棲息する者なり、己れの身辺に春水の優々たるを以て楽天の本義を得たりとする詩人は知らず、斉しく情を解し同じく癡に駆られ、而して己れのみは身を挺して免れたる者の、他に対する憐憫《れんびん》と同情は遂に彼をして世を厭《いと》ひ、もしくは世を罵るに至らしめざるを得んや。世を厭ふものを以《も》て世を厭ふとするは非なり。世を罵る者を以て世を罵るとするは非なり。世を厭ふ者は世を厭ふに先《さきだ》ちて、己れを厭ふなり。世を罵る者は世を罵るに先だちて、己れを罵るなり。己れを遺《わす》れて世を遺るゝを知る。己を空《むなし》うして世を空うするを知る、誰れか己れを厭ふ事を知らずして真の厭世家となり、己れを罵ることを知らずして真の罵世家となるを得んや。
われは非凡なる緑雨の筆勢を察して、彼が人類の心宮《しんきう》を観ずるの法は、先づ其魔毒よりするを認めたり。彼は人類を軟骨動物と思做《おもひな》し、全く誠信なく、全く忠誠なく、心宮中に横威を奮ふ一種の怪魔が自由に人類を支配しつゝありて、咄々《とつ/\》、奇怪至極の此社界かなと観念し来りて、之を奸猾なる健介に寓し、之を窈窕《えうてう》たる美形美禰子に箝《は》め、之を権勢者なる世々良伯に寄す。之を小歌に擬し、下宿屋の女主《あるじ》に※[#「にんべん+扮のつくり」、第3水準1−14−9]《ふん》す。著者の眼中、社界の腐濁を透視し、人類の運命が是等の魔毒に接触する時に如何《いか》になる可きや迄、甚深に透徹す。是点より観察すれば著者は一個の諷刺家なり。然れども著者の諷刺は諷刺家としての諷刺なる事を記憶せざる可からず。自然詩人の諷刺は、諷刺するの止むを得ざるに至りて始めて諷刺す。始めより諷刺の念ありて諷刺するにあらざるなり。始めより諷刺せんとの念を以て諷刺する者は、自ら卑野の形あり、宜《むべ》なるかな、諷刺大王(スウィフト)を除くの外に、絶大の諷刺を出す者なきや。
スウィフトの諷刺せし如く、スウィフトの嘲罵《てうば》したる如くに、沙翁も亦諷刺の舌を有し、嘲罵の喉を持《もち》しなり。然れども沙翁の諷刺嘲罵は平々坦々たる冷語の中に存し、スウィフトのは熾熱《しねつ》せる痛語の中にあり。「ハムレット」に吐露せし沙翁が満腔の大嘲罵は、自《おのづか》ら粛厳犯す可からざる威容を備ふるを見れど、スウィフトの痛烈なる嘲罵は炎々たる火焔には似れど、未だ陽日の赫燿《かくえう》たるには及ばず。
諷刺にも二種ありと見るは非か。一は仮時的《テンポラル》なり、他は永遠にして三世《さんぜ》に亘るなり。仮時的《テンポラル》なる者は一時の現象を対手とし、永遠なる者は人世の秘奥を以《も》て対手とす。政治を刺し、社界を諷する者等は第一種にして、人生の不可避なる傷痍を痛刺して、自《みづか》らも涙底に倒れんとするが如き者は第二種なり。第一種は第二種よりも多く直接の視察《ヲブザーバンス》より暴発《ばくはつ》し、第二種は第一種よりも多く哲学的観察によりて湧生す。
第二種のものは戯曲其他の部門に隠《かくれ》て、第一種の者のみ諷刺の名を縦《ほしいまゝ》にする者の如し。一時の現象を罵り、政治|若《もし》くは社界の汚濁を痛罵するを以て諷刺家の業《わざ》は卒《をは》れる者と思《おもふ》は非にして、一時の現象を透観するの眼光は、万古の現象にも透観すべき筈《はず》なり。一現象は他の現象と脈絡相通ずるをも徹視すべき筈なり。故に諷刺家は仮時的《テンポラル》なりとして賤《いや》しむ可きにあらず、一現象の中《うち》に他の永遠の現象を映影せしむるを得べければなり。ヱゴイズムを外《よそ》にし、狂熱を冷散するとも別に諷刺の元質、世に充盈《じゆうえい》せりと見るは非か。
緑雨は果して渾身《こんしん》是《これ》諷刺なるや否やを知らず。譬喩《ひゆ》に乏しく、構想のゆかしからぬ所より言へば、未だ以て諷刺家と称するには勝《た》へざるべし。然れども、油、犬、両篇を取って精読すれば、溢るゝばかりに冷罵の口調あるを見ざらんと欲するも得べからず。而して疑ふ、彼の冷罵は如何なる対手《あひて》に向ふて投ぐる礫《つぶて》なるや。対手なくして冷罵すと言はゞ、彼は冷罵せんが為に冷罵し、諷刺せんが為に諷刺する者にして、世は彼を重んずること能はざるべし。対手ありて冷罵すとせば、如何なる対手にてやあらむ。対手は能《よ》く冷罵者を軽重す可ければ、この吟味も亦た苟且《かりそめ》にす可からず。
曰く、社界なり。彼は能く現社界を洞察す。特に或る一部分の妖魔《えうま》を捕捉するの怪力を有す。此点より見れば彼は一個の写実家なり。「油地獄」に書生の堕落を描くところなどは、宛然たる写実家なり。然れども彼に写実家の称を与ふるは非なり、彼は写実の点より筆を着《ちやく》せず、諷刺の点より筆を着したればなり、唯だ譬喩なきが故に、諷刺よりも写実に近からんとしたるなり。彼は写実家が社界の実相を描出せんとするが如くならで、諷刺家が世を罵倒せんとて筆を染むるが如くす。彼が胸中を往来する者は、人間界の魔窟なり、人間界の怪魅なり、心宮内の妖婆なり。彼れ能く是等の者を実存界に活《い》け来つて冷罵軽妙の筆を揮ひ、能く人生の実態を描ける者、豈《あに》凡筆ならんや。彼は諷刺家と言はるゝこと能はず、写実家と称へらるゝこと能はず、諷刺家と写実家を兼有せる小説家と名けなば、いかに。
抱一庵の「曇天」想高く気秀いで、一世を驚かすに足るべき小説なりしも、世は遂に左程に歓迎する事なかりし。其故如何となれば、彼は暗々裡に仏国想《フレンチ・アイデア》を担《にな》ひ入れて、奇抜は以て人を驚かすに足りしかども、遂に純然たる日本想の「一口剣」に及ばざるを奈何《いかに》せむ。「辻浄瑠璃」巧緻を極めたりしも遂に「風流仏」に較《かく》す可き様もなし。外国想が日本想の純全なるに如《し》かず、一片相が少くとも円満相に如かざることを是《ぜ》なりと認め得ば、余は緑雨が社界の諸共に認めて妖魔とし魅窟とする処の一片相を取り来つて、以て社界全躰を刺すの材料とせるを惜まずんばある可からず。奇想|却《かへ》つて平凡の如くに見え、妙刺却つて痴言の如くに聞《きこ》え、快罵却つて不平の如くに感ぜらる、斯の如きもの、緑雨が撰みたる材料の不自然にして顕著に過ぎたるものなりしことより起るなり。何が故に不自然なりと云ふ、曰く、社界の魔毒は、緑雨が撰みたる材料の上には商標の如くに見《あら》はるれば、之を罵倒するは鴉の黒きを笑ひ、鷺の白きを罵るが如く感ぜらるればなり、罵倒する材料すでに如此《かくのごとく》なれば、其痛罵も的を外《はづ》れ、諷刺も神《しん》に入らざるこそ道理なれ、又《ま》た惜しむべし。
惜む、惜む、この諷刺の盈々《えい/\》たる気を以て、譬喩の面を被らず素面にして出たることを。惜しむ、惜しむ、この写実の妙腕を以て、徒《いたづ》らに書生の堕落といへる狭まき観察に偏したることを。君に写実の能なしとは言はず。天下、君を指目するに皮肉家を以てす、君何んすれぞ一蹶《いつけつ》して、一世を罵倒するの大譬喩を構へざる。「小説評註」は些技なり、小説家幾人ありとも未だ罵倒すべき巨幹とはならざるを知らずや。罵倒すべき者あり、爆発弾を行《や》る虚無党が敵を倒す時に自《みづか》らも共に倒れて、同じく硝煙の中に露と消ゆるの趣味を能く解せば、いざ語らむ、現社界とは言はず、幾千年の過去より幾千年の未来に亘る可き人間の大不調子、是《これ》なり。
この評を草する時、傍らに人あり、余に告げて曰く、駒之助と云ひ、貞之進と云ひ、余りに※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]弱《ぜんじやく》なる人物を主人公に取りしにはあらずやと。余笑つて曰く、是れ即ち緑雨が冷罵に長ずる所以《ゆゑん》なり、緑雨は写実家の如くに細心なれども、写実家の如くに自然を猟《あさ》ること能はず、彼は貞之進を鋳る時、既に八万の書生を罵らんことを思ひ、駒之助を作る時に、既に唐様を学得せる若旦那を痛罵せんとするのみにて、自然不自然は彼に取りて第二の問題なればなりと。
不自然は即ち不自然ながら、緑雨も亦た全く不哲学的なるにはあらず。駒之助の愛情とその物狂ひを写せるところ真に迫りて、露伴が悟り過《すぎ》たる恋愛よりも面白し。諷刺を離れ、冷罵を離れたるところ、斯般《しはん》の妙趣あり。戯曲的なる「犬蓼」、写実的なる「油地獄」、われはあつぱれ明治二十四年の出色文字と信ず。われは此書を評すとは言は
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