子に箝《は》め、之を権勢者なる世々良伯に寄す。之を小歌に擬し、下宿屋の女主《あるじ》に※[#「にんべん+扮のつくり」、第3水準1−14−9]《ふん》す。著者の眼中、社界の腐濁を透視し、人類の運命が是等の魔毒に接触する時に如何《いか》になる可きや迄、甚深に透徹す。是点より観察すれば著者は一個の諷刺家なり。然れども著者の諷刺は諷刺家としての諷刺なる事を記憶せざる可からず。自然詩人の諷刺は、諷刺するの止むを得ざるに至りて始めて諷刺す。始めより諷刺の念ありて諷刺するにあらざるなり。始めより諷刺せんとの念を以て諷刺する者は、自ら卑野の形あり、宜《むべ》なるかな、諷刺大王(スウィフト)を除くの外に、絶大の諷刺を出す者なきや。
 スウィフトの諷刺せし如く、スウィフトの嘲罵《てうば》したる如くに、沙翁も亦諷刺の舌を有し、嘲罵の喉を持《もち》しなり。然れども沙翁の諷刺嘲罵は平々坦々たる冷語の中に存し、スウィフトのは熾熱《しねつ》せる痛語の中にあり。「ハムレット」に吐露せし沙翁が満腔の大嘲罵は、自《おのづか》ら粛厳犯す可からざる威容を備ふるを見れど、スウィフトの痛烈なる嘲罵は炎々たる火焔には似れど、未だ陽日の赫燿《かくえう》たるには及ばず。
 諷刺にも二種ありと見るは非か。一は仮時的《テンポラル》なり、他は永遠にして三世《さんぜ》に亘るなり。仮時的《テンポラル》なる者は一時の現象を対手とし、永遠なる者は人世の秘奥を以《も》て対手とす。政治を刺し、社界を諷する者等は第一種にして、人生の不可避なる傷痍を痛刺して、自《みづか》らも涙底に倒れんとするが如き者は第二種なり。第一種は第二種よりも多く直接の視察《ヲブザーバンス》より暴発《ばくはつ》し、第二種は第一種よりも多く哲学的観察によりて湧生す。
 第二種のものは戯曲其他の部門に隠《かくれ》て、第一種の者のみ諷刺の名を縦《ほしいまゝ》にする者の如し。一時の現象を罵り、政治|若《もし》くは社界の汚濁を痛罵するを以て諷刺家の業《わざ》は卒《をは》れる者と思《おもふ》は非にして、一時の現象を透観するの眼光は、万古の現象にも透観すべき筈《はず》なり。一現象は他の現象と脈絡相通ずるをも徹視すべき筈なり。故に諷刺家は仮時的《テンポラル》なりとして賤《いや》しむ可きにあらず、一現象の中《うち》に他の永遠の現象を映影せしむるを得べければなり。ヱゴイズムを外《よそ》にし、狂熱を冷散するとも別に諷刺の元質、世に充盈《じゆうえい》せりと見るは非か。
 緑雨は果して渾身《こんしん》是《これ》諷刺なるや否やを知らず。譬喩《ひゆ》に乏しく、構想のゆかしからぬ所より言へば、未だ以て諷刺家と称するには勝《た》へざるべし。然れども、油、犬、両篇を取って精読すれば、溢るゝばかりに冷罵の口調あるを見ざらんと欲するも得べからず。而して疑ふ、彼の冷罵は如何なる対手《あひて》に向ふて投ぐる礫《つぶて》なるや。対手なくして冷罵すと言はゞ、彼は冷罵せんが為に冷罵し、諷刺せんが為に諷刺する者にして、世は彼を重んずること能はざるべし。対手ありて冷罵すとせば、如何なる対手にてやあらむ。対手は能《よ》く冷罵者を軽重す可ければ、この吟味も亦た苟且《かりそめ》にす可からず。
 曰く、社界なり。彼は能く現社界を洞察す。特に或る一部分の妖魔《えうま》を捕捉するの怪力を有す。此点より見れば彼は一個の写実家なり。「油地獄」に書生の堕落を描くところなどは、宛然たる写実家なり。然れども彼に写実家の称を与ふるは非なり、彼は写実の点より筆を着《ちやく》せず、諷刺の点より筆を着したればなり、唯だ譬喩なきが故に、諷刺よりも写実に近からんとしたるなり。彼は写実家が社界の実相を描出せんとするが如くならで、諷刺家が世を罵倒せんとて筆を染むるが如くす。彼が胸中を往来する者は、人間界の魔窟なり、人間界の怪魅なり、心宮内の妖婆なり。彼れ能く是等の者を実存界に活《い》け来つて冷罵軽妙の筆を揮ひ、能く人生の実態を描ける者、豈《あに》凡筆ならんや。彼は諷刺家と言はるゝこと能はず、写実家と称へらるゝこと能はず、諷刺家と写実家を兼有せる小説家と名けなば、いかに。
 抱一庵の「曇天」想高く気秀いで、一世を驚かすに足るべき小説なりしも、世は遂に左程に歓迎する事なかりし。其故如何となれば、彼は暗々裡に仏国想《フレンチ・アイデア》を担《にな》ひ入れて、奇抜は以て人を驚かすに足りしかども、遂に純然たる日本想の「一口剣」に及ばざるを奈何《いかに》せむ。「辻浄瑠璃」巧緻を極めたりしも遂に「風流仏」に較《かく》す可き様もなし。外国想が日本想の純全なるに如《し》かず、一片相が少くとも円満相に如かざることを是《ぜ》なりと認め得ば、余は緑雨が社界の諸共に認めて妖魔とし魅窟とする処の一片相を取り来つて、以て社界全躰を刺すの材料と
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