モウのめないのだ!
晴れ上がった良い天気だった。
トロッコのレールが縦横に敷かさっている薄暗い一見地下室らしく見えるところを通って、階段を上ると、広い事務所に出た。そこで私の両側についてきた特高が引き継ぎをやった。
「君は秋田の生れだと云ったな。僕もそうだよ。これも何んかのめぐり[#「めぐり」に傍点]合せだろう。僕から云うのも変だが、何よりまア身体を丈夫にしてい給え。」
ずんぐりした方が一寸テレ[#「テレ」に傍点]て、帽子の縁に手をやった。
ごじゃ/\と書類の積まさった沢山の机を越して、窓際近くで、顎《あご》のしゃくれた眼のひッこんだ美しい女の事務員が、タイプライターを打ちながら、時々こっちを見ていた。こういう所にそんな女を見るのが、俺には何んだか不思議な気がした。
持ちものをすッかり調らべられてから、係が厚い帳面を持ってきて、刑務所で預かる所持金の受取りをさせられた。捕かまる時、オレは交通費として現金を十円ほど持っていた。俺たちのように運動をしているものは、命と同じように「交通費」を大切にしている。――印を押そうと思って、広げられた帳面を見ると、俺の名から二つ三つ前に、知っている名前のあるのに目がとまった。それは名の知れている左翼の人で、最近どうして書かなくなったのだろうと思っていた人だった。ところが、此処にいたのだ。この人も! そう思うと、俺は何んだか急に気が強くなるのを感じた。
それから「仮調所」に連れて行かれて、裸かにされた。チンポも何もすっかり出して、横を向いたり、廻われ右をしたり、身体中の特徴を記録にとられた。俺は自分でも知らなかった背中のホクロを探し出された。其処《そこ》で、俺は「青い着物」をきせられたのだった。
青い着物を着、青い股引《ももひき》をはき、青い褌《ふんどし》をしめ、青い帯をしめ、ワラ草履《ぞうり》をはき、――生れて始めて、俺は「編笠《あみがさ》」をかぶった。だが、俺は褌まで青くなくたっていゝだろうと思った。
向うのコンクリートの建物の間を、赤い着物をきた囚人が一列に並んで仕事から帰ってくるのが見える。
俺は始め身体がどうしても小刻《こきざ》みにふるえて、困った。
「どうだ、初めての着工合は……」
と看守が云った。
俺は、知らないうちに入っていた肩から力を抜いて、ゆっくり、大きく息を吸いこんだ。
「この廊下を真ッ直ぐに行くんだ、――編笠をかぶって。」
俺は看守の指さす方を見た。
長い廊下の行手に、沢山の鉄格子の窓を持った赤い煉瓦《れんが》の建物がつッ立っていた。
俺はだまって、その方へ歩き出した。
アパアト住い
「南房」の階上。
独房――「No. 19.」
共犯番号「セ」の六十三号。
警察から来ると、此処は何んと静かなところだろう。長い廊下の両側には、錠《じょう》の下りた幾十という独房がズラリと並んでいた。俺はその前を通ったとき、フトその一つの独房の中から低いしわぶき[#「しわぶき」に傍点]の声を耳にした。俺はその時、突然肩をつかまれたように、そのどの中にも我々の同志が腕を組み、眼を光らして坐っているのだ、ということを感じた。
俺は最初まだ何にも揃《そろ》っていないガランドウの独房の中に入れられた。扉が小さい室に風を煽《あお》って閉まると、ガチャン/\と鋭い音を立てゝ錠が下り、――俺は生れて始めて、たった独り[#「独り」に傍点]にされたのだ。
俺は音をたてないように、室の中を歩きまわり、壁をたゝいてみ、窓から外をソッと覗《のぞ》いてみ、それから廊下の方に聞き耳をたてた。
誰か廊下を歩いてゆく。立ち止まって、その音に何時でも耳をすましていると、急にワクワクと身体が底から顫《ふる》えてくる――恐怖に似た物狂おしさが襲ってきた。その時、今でも覚えている、俺はワッと声をあげて泣けるものなら、子供よりもモッと大声を上げて、恥知らずに泣いてしまいたかった。
しばらくして、赤い着物をきた雑役が、色々な「世帯道具」――その雑役はそんなことを云った――を運んできてくれた。
「どうした? 眼が赤いようだな。」
と、俺を見て云った――
「なに、じき慣れるさ。」
俺は相手から顔をそむけて、
「バカ! 共産党が泣くかい。」
と云った。
箒《ほうき》。ハタキ。渋紙で作った塵取《ちりとり》。タン壺。雑巾。
蓋《ふた》付きの茶碗二個。皿一枚。ワッパ一箇。箸《はし》一ぜん。――それだけ入っている食器箱。フキン一枚。土瓶《どびん》。湯呑茶碗一個。
黒い漆塗《うるしぬり》の便器。洗面器。清水桶。排水桶。ヒシャク一個。
縁のない畳一枚。玩具《おもちゃ》のような足の低い蚊帳《かや》。
それに番号の片《きれ》と針と糸を渡されたので、俺は着物の襟《えり》にそれを縫いつけた。そして、こっそり小さい円《ま》るい鏡に写してみた。すると急に自分の顔が罪人[#「罪人」に傍点]になって見えてきた。俺は急いで鏡を机の上に伏せてしまった。
雑役が用事の最後に、ニヤ/\笑いながら云った。
「お前さん今度が初めてだね。これで一通りの道具はちゃアんと揃ってるもんだろう。これからこの室が長い間のお前さんのアパアト[#「アパアト」に傍点]になるわけさ。だから、自分でキチン/\と綺麗《きれい》にしておいた方がいゝよ。そしたら却々《なかなか》愛着が出るもんだ。」
それから、看守の方をチラッと見て、
「ヘン、しゃれたもんだ、この不景気にアパアト住いだなんて!」
と云って、出て行った。
長い欧州航路
監獄に廻わってから、何が一番気持ちがよかったかときかれたら、俺は六十日目に始めてシャボンを使ってお湯に入ったことだと云おう。
湯槽《ゆぶね》は小じんまりとしたコンクリートで出来ていて、お湯につかっていながら、スウイッチをひねると、ガチャン、ガタン、ガチャン、ガタン、ゴボン、ゴボンとスチームが入ってくるようになっていた。
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入浴時間 十五分
規定の時間を守らざるものは入浴の順番取りかえることあるべし
[#ここで字下げ終わり]
警察の留置場にいたときよく、言問橋の袂《たもと》に住んでいる「青空一家」や三河島のバタヤ(屑買い)が引張られてきた。そんな連中は入ってくると、臭《くさ》いジト/\したシャツを脱いで、虱《しらみ》を取り出した。真っ黒なコロッとした虱が、折目という折目にウジョ/\たか[#「たか」に傍点]っていた。
一度、六十位の身体一杯にヒゼン[#「ヒゼン」に傍点]をかいたバタヤのお爺さんが這入《はい》ってきたことがあった。エンコに出ていて、飲食店の裏口を廻って歩いて、ズケ(残飯)にありついている可哀相なお爺さんだった。五年刑務所にいて、やっとこの正月出てきたんだから、今年の正月だけはシャバでやって行きたいと云っていた。――俺はそのお爺さんと寝てやっているうちに、すっかりヒゼンをうつされていた。それで、この六十日目に入るお湯が、俺をまるで夢中にさせてしまった。
そこは独房とちがって、窓が低いので、刑務所の広い庭が見えた。低く円るく刈り込まれた松の木が、青々とした綺麗な芝生の上に何本も植えられていて、その間の小径の、あちこちに赤い着物が蹲んで、延び過ぎた草を呑気《のんき》そうに摘んでいた。黒いゲートルを巻いた、ゴム足袋の看守が両手を後にまわして、その側をブラ/\しながら何か話しかけていた……。夕陽が向う側の監獄の壁を赤く染めて、手前の庭の半分に、煉瓦建の影を斜《なな》めに落していた。――それは日が暮れようとして、しかもまだ夜が来ていない一《ひと》時の、すべてのものがその動きと音をやめている時だった。私はそのなごやかな監獄風景を眺めながら、たゞお湯の音だけをジャブ/\たてゝ、身体をこすっていた。ものみんなが静かな世界に、お湯のジャブ/\だけが音をたてゝいるのが、何かしら今だに印象に残っている。
次の日は「理髪」だった。――俺はこうして、此処へ来てから一つ一つ人並みになって行った。――こゝの床屋さんは赤い着物を着ている。
顔のちっとも写らない壊れた小さい鏡の置いてある窓際に坐ると、それでも首にハンカチをまいて、白いエプロンをかけてくれる。この「赤い」床屋さんは瘤《こぶ》の多いグル/\頭の、太い眉をした元船員の男だった。三年食っていると云った。出たくないかときくと、なアに長い欧州航路を上陸をせずに、そのまゝ二三度繰りかえしていると思えば何んでもない、と云って笑った。
「アパアト住い」と云い、又この「欧州航路」と云い、こゝにいるどの赤い着物も、そんなことを自分の家にいるよりも何んでもなく云ってのける。
用意が出来ると、この床屋さんが後に廻りながら、
「バリカンで、ジョキ/\やってしまうぜ。」
と云った。
それは分っていて……しかし云われてみると、矢張りギョッとした。
「頼む! 少しは長くしておいてくれよ。」
「こゝン中にいて、一体誰に見せるんだ。」
と云って、クッ、クッと笑った。
「そうか、そうか、分った。面会に来る女《ひと》があるんだろうからな――」
それで俺の髪だけは助った。然しこの理髪師はニキビであろうが、何んであろうが、上から下へ一気に剃刀《かみそり》を使って、それをそり[#「そり」に傍点]落してしまった。
俺がヒリ/\する頬を抑えていると、ニヤ/\笑いながら、
「こゝは銀座の床屋じゃないんだからな。」
と云った。
赤色体操
俺だちは朝六時半に起きる。これは四季によって少しずつ違う。起きて直ぐ、蒲団を片付け、毛布をたゝみ、歯を磨いて、顔を洗う。その頃に丁度「点検」が廻わってくる。一隊は三人で、先頭の看守がガチャン/\と扉を開けてゆくと、次の部長が独房の中を覗《のぞ》きこんで、点検簿と引き合せて、
「六十三番」
と呼ぶ。
殿《しんが》りの看守がそれをガチャン/\閉めて行く。
七時半になると「ごはんの用――意!」と、向う端の方で雑役が叫ぶ。そしたら、食器箱の蓋の上にワッパと茶碗を二つ載せ、片手に土瓶を持って、入口に立って待っている。飯の車が廊下を廻わってくるのだ。扉が開いたら、それを差出す。――円るい型にハメ込んだ番号の打ってある飯をワッパに、味噌汁を二杯に限って茶碗に、それから土瓶にお湯を貰う。味噌汁の表面には、時々煮込こまれて死んだウジに似た白い虫が浮いていた。
八時に「排水」と「給水」がある。新しい水を貰って、使った水を捨てゝもらい、便器を廊下に出して掃除をしてもらう。(これが一日に二度で、昼過ぎにもある。)
それが済むと、後は自由な時間になる。小さい固い机の上で本を読む。壁に「ラジオ体操」の図解が貼りつけてあるので、体操も出来る。
独房の入口の左上に、簡単な仕掛けがあって、そこに出ている木の先を押すと、カタンと音がして、外の廊下に独房の番号を書いた扇形の「標示器」が突き出るようになっている。看守がそれを見て、扉の小さいのぞき[#「のぞき」に傍点]から「何んだ?」と、用事をきゝに来てくれる。
昼過ぎになると、担当の看守が「明日の願い事」と云って、廻わってくる。
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キャラメル一つ。林檎 十銭。
差入本の「下附願」。
書信 封緘《ふうかん》葉書二枚。
着物の宅下げ願。
[#ここで字下げ終わり]
運動は一日一度――二十分。入浴は一週二度、理髪は一週一度、診察が一日置きにある。一日置きに診察して貰えるので、時にはまるで「お抱え医者」を侍《はべ》らしているゼイタクな気持を俺だちに起させることがある。然し勿論その「お抱え医者」なるものが、どんな医者であるかということになれば、それは全く[#「全く」に傍点]別なことである。
夜、八時就寝、たっぷり十一時間の睡眠がとれる。
俺だちは「外」にいた時には、ヒドイ生活をしていた。一カ月以上も元気でお湯に入らなかったし、何日も一日一度の飯で歩き廻って、ゲッそり痩《や》せてしまったこともある。一週間と同じ処に住んでいられないために
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