たゞお茶をのんで帰ってゆくという客ではなく、女を相手に馬鹿話をしてゆく連中が多かった。それに一々調子を合わせて行かなければならない。それらが笠原の心に沁《し》みこんでゆくのが分った。私はまだ笠原の全部を投げ出しているのではない、機会があったらと色々な本を届けたり、出来るだけ色々な話をしてやっていたのだ。だが、彼女は今迄《いままで》よりモット色々なことをおッくうがり、ものごとをしつこく考えてみるということをしなくなった。
然《しか》し私はそんなに笠原にかゝずり合っていることは出来なかった。仕事の忙がしさが私を引きずッた。倉田工業の情勢が切迫してくるとゝもに、私は笠原のところへはたゞ交通費を貰《もら》いに行くことゝ、飯を食いに行くことだけになって、彼女と話すことは殆《ほと》んどなくなってしまっていた。気付くと、笠原は時々淋しい顔をしていた。が私はとにかく笠原のおかげで日常の活動がうまく出来ているのだから、その意味では彼女と雖《いえど》も仕事の重要な一翼をもっていることになる。私はそのことを笠原に話し、彼女がその自覚をハッキリと持ち、自分の姿勢を崩さないようにするのが必要だと云った。
だん/\私には、交通費や飯にありつくために出掛けることさえ余裕なくなり、その喫茶店には三日に一度、一週間に一度、十日に一度という風に数少なくなって行った。「地方」「地区」それに「工細」と仕事が重なって居り、一日に十二三回の連絡さえあることがあった。そんな時は朝の九時頃出ると、夜の十時頃までかゝった。下宿に帰ってくると首筋の肉が棒のように固《こ》わばり、頭がギン、ギン痛んだ。私はようやく階段を上がり、そのまゝ畳のうえにうつ伏せになった。私はこの頃、どうしても仰向けにゆッたりと寝ることが出来なくなった。極度の疲労から身体の何処《どこ》かを悪くしているらしく、弱い子供のように直ぐうつ伏せになって寝ていた。私は思い出すのだが、父が秋田で百姓をしていた頃、田から上がってくると、泥まみれの草鞋《わらじ》のまゝ、ヨクうつ伏せになって上り端《はな》で昼寝していた。父は身体に無理をして働いていた。小作料があまり酷なために、村の人が誰も手をつけない石ころ[#「ころ」に傍点]だらけの「野地《やじ》」を余分に耕やしていた。そこから少しでも作《さく》をあげて、暮しの足《たし》にしようとしたのである。そんなことのた
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