ってるべよ」
「…………」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。
「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけた。
トブーン、ドブーンとゆるく腹《サイド》に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれ[#「もれ」に傍点]ているらしく、シー、シ――ン、シ――ンという鉄瓶《てつびん》のたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。
寝る前に、漁夫達は垢《あか》でスルメのようにガバガバになったメリヤスやネルのシャツを脱いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるもの達が、炬燵《こたつ》のように各※[#二の字点、1−2−22]その端をもって、熱くしてからバタバタとほろっ[#「ほろっ」に傍点]た。ストーヴの上に虱《しらみ》や南京虫が落ちると、プツン、プツンと、音をたてて、人が焼ける時のような生ッ臭い臭《にお》いがした。熱くなると、居たまらなくなった虱が、シャツの縫目から、細かい沢山の足を夢中に動かして、出て来る。つまみ上げると、皮膚の脂肪《あぶら》ッぽいコロッとした身体の感触がゾッときた。かまきり虫のような、無気味な頭が、それと分る程肥えているのもいた。
「おい、端を持ってけれ」
褌《ふんどし》の片端を持ってもらって、広げながら虱をとった。
漁夫は虱を口に入れて、前歯で、音をさせてつぶしたり、両方の拇指《おやゆび》の爪で、爪が真赤になるまでつぶした。子供が汚い手をすぐ着物に拭《ふ》くように、袢天《はんてん》の裾《すそ》にぬぐうと、又始めた。――それでも然し眠れない。何処から出てくるか、夜通し虱と蚤《のみ》と南京虫《ナンキンむし》に責められる。いくらどうしても退治し尽されなかった。薄暗く、ジメジメしている棚に立っていると、すぐモゾモゾと何十匹もの蚤が脛《すね》を這《は》い上ってきた。終《しま》いには、自分の体の何処かが腐ってでもいないのか、と思った。蛆《うじ》や蠅に取りつかれている腐爛《ふらん》した「死体」ではないか、そんな不気味さを感じた。
お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭くよごれて仕様がなかった。然し一週間もすると、三日置きになり、一カ月位経つと、一週間一度。そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費《らんぴ》を防ぐためだった。然し、船長や監督は毎日お湯に入った。それは濫費にはならなかった。(!)――身体が蟹の汁で汚れる、それがそのまま何日も続く、それで虱か南京虫が湧《わ》かない「筈《はず》」がなかった。
褌を解くと、黒い粒々がこぼれ落ちた。褌をしめたあとが、赤くかた[#「かた」に傍点]がついて、腹に輪を作った。そこがたまらなく掻《か》ゆかった。寝ていると、ゴシゴシと身体をやけにかく音が何処からも起った。モゾモゾと小さいゼンマイのようなものが、身体の下側を走るかと思うと――刺す。その度に漁夫は身体をくねらし、寝返りを打った。然し又すぐ同じだった。それが朝まで続く。皮膚が皮癬《ひぜん》のように、ザラザラになった。
「死に虱[#「死に虱」に傍点]だべよ」
「んだ、丁度ええさ」
仕方なく、笑ってしまった。
五
あわてた漁夫が二、三人デッキを走って行った。
曲り角で、急にまがれず、よろめいて、手すりにつかまった。サロン・デッキで修繕をしていた大工が背のびをして、漁夫の走って行った方を見た。寒風の吹きさらしで、涙が出て、初め、よく見えなかった。大工は横を向いて勢いよく「つかみ鼻[#「つかみ鼻」に傍点]」をかんだ。鼻汁が風にあふられて、歪《ゆが》んだ線を描いて飛んだ。
ともの左舷のウインチがガラガラなっている。皆漁に出ている今、それを動かしているわけ[#「わけ」に傍点]がなかった。ウインチにはそして何かブラ下っていた。それが揺れている。吊《つ》り下がっているワイヤーが、その垂直線の囲りを、ゆるく円を描いて揺れていた。「何んだべ?」――その時、ドキッと来た。
大工は周章《あわて》たように、もう一度横を向いて「つかみ鼻」をかんだ。それが風の工合でズボンにひっかかった。トロッとした薄い水鼻だった。
「又、やってやがる」大工は涙を何度も腕で拭《ぬぐ》いながら眼をきめた。
こっちから見ると、雨上りのような銀灰色の海をバックに、突き出ているウインチの腕、それにすっかり身体を縛られて、吊し上げられている雑夫が、ハッキリ黒く浮び出てみえた。ウインチの先端まで空を上ってゆく。そして雑巾《ぞうきん》切れでもひッかかったように、しばらくの間――二十分もそのままに吊下げられている。それから下がって行った。身体をくねらして、もがいているらしく、両足が蜘蛛《くも》の巣にひっかかった蠅《はえ》のように動いている。
やがて手前のサロンの陰になって、見えなくなった。一直線に張っていたワイヤーだけが、時々ブランコのように動いた。
涙が鼻に入ってゆくらしく、水鼻がしきりに出た。大工は又「つかみ鼻」をした。それから横ポケットにブランブランしている金槌《かなづち》を取って、仕事にかかった。
大工はひょいと耳をすまして――振りかえって見た。ワイヤ・ロープが、誰か下で振っているように揺れていて、ボクンボクンと鈍い不気味な音は其処《そこ》からしていた。
ウインチに吊された雑夫は顔の色が変っていた。死体のように堅くしめている唇から、泡《あわ》を出していた。大工が下りて行った時、雑夫長が薪《まき》を脇《わき》にはさんで、片肩を上げた窮屈な恰好《かっこう》で、デッキから海へ小便をしていた。あれでなぐったんだな、大工は薪をちらっと見た。小便は風が吹く度に、ジャ、ジャとデッキの端にかかって、はね[#「はね」に傍点]を飛ばした。
漁夫達は何日も何日も続く過労のために、だんだん朝起きられなくなった。監督が石油の空罐《あきかん》を寝ている耳もとでたたいて歩いた。眼を開けて、起き上るまで、やけに罐をたたいた。脚気《かっけ》のものが、頭を半分上げて何か云っている。然《しか》し監督は見ない振りで、空罐をやめない。声が聞えないので、金魚が水際に出てきて、空気を吸っている時のように、口だけパクパク動いてみえた。いい加減たたいてから、
「どうしたんだ、タタき起すど!」と怒鳴りつけた。「いやしくも仕事が国家的である以上、戦争と同じ[#「戦争と同じ」に傍点]なんだ。死ぬ覚悟で働け! 馬鹿野郎」
病人は皆|蒲団《ふとん》を剥《は》ぎとられて、甲板へ押し出された。脚気のものは階段の段々に足先きがつまずいた。手すりにつかまりながら、身体を斜めにして、自分の足を自分の手で持ち上げて、階段を上がった。心臓が一足毎に無気味にピンピン蹴《け》るようにはね上った。
監督も、雑夫長も病人には、継子《ままこ》にでも対するようにジリジリ[#「ジリジリ」に傍点]と陰険だった。「肉詰」をしていると追い立てて、甲板で「爪たたき」をさせられる。それを一寸《ちょっと》していると「紙巻」の方へ廻わされる。底寒くて、薄暗い工場の中ですべる足元に気をつけながら、立ちつくしていると、膝《ひざ》から下は義足に触るより無感覚になり、ひょいとすると膝の関節が、蝶《ちょう》つがいが離れたように、不覚にヘナヘナ[#「ヘナヘナ」に傍点]と坐り込んでしまいそうになった。
学生が蟹をつぶした汚れた手の甲で、額を軽くたたいていた。一寸すると、そのまま横倒しに後へ倒れてしまった。その時、側に積《か》さなっていた罐詰の空罐がひどく音をたてて、学生の倒れた上に崩れ落ちた。それが船の傾斜に沿って、機械の下や荷物の間に、光りながら円るく転んで行った。仲間が周章てて学生をハッチに連れて行こうとした。それが丁度、監督が口笛を吹きながら工場に下りてきたのと、会った。ひょいと見てとると、
「誰が仕事を離れったんだ!」
「誰が※[#感嘆符疑問符、1−8−78]……」思わずグッと来た一人が、肩でつッかかるようにせき込んだ。
「誰がア――? この野郎、もう一度云ってみろ!」監督はポケットからピストルを取り出して、玩具のようにいじり廻わした。それから、急に大声で、口を三角形にゆがめながら、背のびをするように身体をゆすって、笑い出した。
「水を持って来い!」
監督は桶《おけ》一杯に水を受取ると、枕木のように床に置き捨てになっている学生の顔に、いきなり――一度に、それを浴せかけた。
「これでええんだ。――要《い》らないものなんか見なくてもええ、仕事でもしやがれ!」
次の朝、雑夫が工場に下りて行くと、旋盤の鉄柱に、前の日の学生が縛りつけられているのを見た。首をひねられた鶏のように、首をガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露《あら》わに見せていた。そして子供の前掛けのように、胸に、それが明らかに監督の筆致で、
[#ここから2字下げ]
「此者ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄《あさなわ》ヲ解クコトヲ禁ズ」
[#ここで字下げ終わり]
と書いたボール紙を吊していた。
額に手をやってみると、冷えきった鉄に触るより冷たくなっている。雑夫等は工場に入るまで、ガヤガヤしゃべっていた。それが誰も口をきくものがない。後から雑夫長の下りてくる声をきくと、彼等はその学生の縛られている機械から二つに分れて各々の持場に流れて行った。
蟹漁が忙がしくなると、ヤケに当ってくる。前歯を折られて、一晩中「血の唾」をはいたり、過労で作業中に卒倒したり、眼から血を出したり、平手で滅茶苦茶に叩《たた》かれて、耳が聞えなくなったりした。あんまり疲れてくると、皆は酒に酔ったよりも他愛なくなった。時間がくると、「これでいい」と、フト安心すると、瞬間クラクラッとした。
皆が仕舞いかけると、
「今日は九時までだ」と監督が怒鳴って歩いた。「この野郎達、仕舞いだッて云う時だけ、手廻わしを早くしやがって!」
皆は高速度写真のようにノロノロ又立ち上った。それしか気力がなくなっていた。
「いいか、此処《ここ》へは二度も、三度も出直して来れるところじゃないんだ。それに何時《いつ》だって蟹が取れるとも限ったものでもないんだ。それを一日の働きが十時間だから十三時間だからって、それでピッタリやめられたら、飛んでもないことになるんだ。――仕事の性質《たち》が異《ちが》うんだ。いいか、その代り蟹が採れない時は、お前達を勿体ない程[#「勿体ない程」に傍点]ブラブラさせておくんだ」監督は「糞壺」へ降りてきて、そんなことを云った。「露助はな、魚が何んぼ眼の前で群化《くき》てきても、時間が来れば一分も違わずに、仕事をブン投げてしまうんだ。んだから――んな心掛けだから露西亜《ロシア》の国がああなったんだ。日本男児[#「日本男児」に傍点]の断じて真似《まね》てならないことだ!」
何に云ってるんだ、ペテン野郎! そう思って聞いていないものもあった。然し大部分は監督にそう云われると日本人はやはり偉いんだ、という気にされた。そして自分達の毎日の残虐な苦しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせめても皆を慰めさせた。
甲板で仕事をしていると、よく水平線を横切って、駆逐艦が南下して行った。後尾に日本の旗がはためくのが見えた。漁夫等は興奮から、眼に涙を一杯ためて、帽子をつかんで振った。――あれだけだ。俺達の味方は、と思った。
「畜生、あいつ[#「あいつ」に傍点]を見ると、涙が出やがる」
だんだん小さくなって、煙にまつわって見えなくなるまで見送った。
雑巾切れのように、クタクタになって帰ってくると、皆は思い合わせたように、相手もなく、ただ「畜生!」と怒鳴った。暗がりで、それは憎悪《ぞうお》に満ちた牡牛《おうし》の唸《うな》り声に似ていた。誰に対してか彼等自身分ってはいなかったが、然し毎日々々同じ「糞壺」の中にいて、二百人近くのもの等がお互にブッキラ棒にしゃべり合っているうちに、眼に見えずに、考えること、云うこと、することが、(なめくじ[#「なめくじ」に傍点]が地面を匐《は》うほどののろさだが)同じになって行った。――その同じ
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