一家は次の春には餓死することがあった。それは「事実」何度もあった。雪が溶けた頃になって、一里も離れている「隣りの人」がやってきて、始めてそれが分った。口の中から、半分|嚥《の》みかけている藁屑《わらくず》が出てきたりした。
 稀《ま》れに餓死から逃れ得ても、その荒ブ地を十年もかかって耕やし、ようやくこれで普通の畑になったと思える頃、実はそれにちアんと、「外の人」のものになるようになっていた。資本家は――高利貸、銀行、華族、大金持は、嘘《うそ》のような金を貸して置けば、(投げ捨てて置けば)荒地は、肥えた黒猫の毛並のように豊饒な土地になって、間違なく、自分のものになってきた。そんな事を真似て、濡手[#「濡手」に傍点]をきめこむ、目の鋭い人間も、又北海道に入り込んできた。――百姓は、あっちからも、こっちからも自分のものを噛《か》みとられて行った。そして終《しま》いには、彼等が内地でそうされたと同じように「小作人[#「小作人」に傍点]」にされてしまっていた。そうなって百姓は始めて気付いた。――「失敗《しま》った!」
 彼等は少しでも金を作って[#「金を作って」に傍点]、故里《ふるさと》の村に帰ろう、そう思って、津軽海峡を渡って、雪の深い北海道へやってきたのだった。――蟹工船にはそういう、自分の土地を「他人」に追い立てられて来たものが沢山いた。
 積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽《おたる》の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太《かばふと》や北海道の奥地へ船で引きずられて行く。足を「一寸《いっすん》」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響をたてて転落してくる角材の下になって、南部センベイ[#「南部センベイ」に傍点]よりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐり[#「一なぐり」に傍点]されると、頭のつぶれた人間は、蚤《のみ》の子よりも軽く、海の中へたたき込まれた。
 ――内地では、何時までも、黙って「殺されていない」労働者が一かたまりに固って、資本家へ反抗している。然し「殖民地」の労働者は、そういう事情から完全に「遮断《しゃだん》」されていた。
 苦しくて、苦しくてたまらない。然し転《ころ》んで歩けば歩く程、雪ダルマのように苦しみを身体に背負い込んだ。
「どうなるかな……?」
「殺されるのさ、分ってるべよ」
「…………」何か云いたげな、然しグイとつまったまま、皆だまった。
「こ、こ、殺される前に、こっちから殺してやるんだ」どもりがブッきら棒に投げつけた。
 トブーン、ドブーンとゆるく腹《サイド》に波が当っている。上甲板の方で、何処かのパイプからスティムがもれ[#「もれ」に傍点]ているらしく、シー、シ――ン、シ――ンという鉄瓶《てつびん》のたぎるような、柔かい音が絶えずしていた。

 寝る前に、漁夫達は垢《あか》でスルメのようにガバガバになったメリヤスやネルのシャツを脱いで、ストーヴの上に広げた。囲んでいるもの達が、炬燵《こたつ》のように各※[#二の字点、1−2−22]その端をもって、熱くしてからバタバタとほろっ[#「ほろっ」に傍点]た。ストーヴの上に虱《しらみ》や南京虫が落ちると、プツン、プツンと、音をたてて、人が焼ける時のような生ッ臭い臭《にお》いがした。熱くなると、居たまらなくなった虱が、シャツの縫目から、細かい沢山の足を夢中に動かして、出て来る。つまみ上げると、皮膚の脂肪《あぶら》ッぽいコロッとした身体の感触がゾッときた。かまきり虫のような、無気味な頭が、それと分る程肥えているのもいた。
「おい、端を持ってけれ」
 褌《ふんどし》の片端を持ってもらって、広げながら虱をとった。
 漁夫は虱を口に入れて、前歯で、音をさせてつぶしたり、両方の拇指《おやゆび》の爪で、爪が真赤になるまでつぶした。子供が汚い手をすぐ着物に拭《ふ》くように、袢天《はんてん》の裾《すそ》にぬぐうと、又始めた。――それでも然し眠れない。何処から出てくるか、夜通し虱と蚤《のみ》と南京虫《ナンキンむし》に責められる。いくらどうしても退治し尽されなかった。薄暗く、ジメジメしている棚に立っていると、すぐモゾモゾと何十匹もの蚤が脛《すね》を這《は》い上ってきた。終《しま》いには、自分の体の何処かが腐ってでもいないのか、と思った。蛆《うじ》や蠅に取りつかれている腐爛《ふらん》した「死体」ではないか、そんな不気味さを感じた。
 お湯には、初め一日置きに入れた。身体が生ッ臭くよごれて仕様がなかった。然し一週間もすると、三日置きになり、一カ月位経つと、一週間一度。そしてとうとう月二回にされてしまった。水の濫費《らんぴ》を防ぐためだった。然し、船長や監督は毎日お湯に入った。それは濫費にはならなかった。(
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