てたまるもんか!」
 吃《ども》りの漁夫が、自分でももどかしく、顔を真赤に筋張らせて、急に、大きな声を出した。
 一寸《ちょっと》、皆だまった。何かにグイと心を「不意」に突き上げられた――のを感じた。
「カムサツカで死にたくないな……」
「…………」
「中積船、函館ば出たとよ。――無電係の人云ってた」
「帰りてえな」
「帰れるもんか」
「中積船でヨク逃げる奴がいるってな」
「んか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ……ええな」
「漁に出る振りして、カムサツカの陸さ逃げて、露助と一緒に赤化宣伝ばやってるものもいるッてな」
「…………」
「日本帝国のためか、――又、いい名義を考えたもんだ」――学生は胸のボタンを外《はず》して、階段のように一つ一つ窪《くぼ》みの出来ている胸を出して、あくびをしながら、ゴシゴシ掻《か》いた。垢《あか》が乾いて、薄い雲母のように剥《は》げてきた。
「んよ、か、会社の金持ばかり、ふ、ふんだくるくせに」
 カキ[#「カキ」に傍点]の貝殻のように、段々のついた、たるんだ眼蓋《まぶた》から、弱々しい濁った視線をストオヴの上にボンヤリ投げていた中年を過ぎた漁夫が唾《つば》をはいた。ストオヴの上に落ちると、それがクルックルッと真円《まんまる》にまるくなって、ジュウジュウ云いながら、豆のように跳《は》ね上って、見る間に小さくなり、油煙粒ほどの小さいカス[#「カス」に傍点]を残して、無くなった。皆はそれにウカツな視線を投げている。
「それ、本当かも知れないな」
 然し、船頭が、ゴム底タビの赤毛布の裏を出して、ストーヴにかざしながら、「おいおい叛逆《てむかい》なんかしないでけれよ」と云った。
「…………」
「勝手だべよ。糞」吃りが唇を蛸《たこ》のように突き出した。
 ゴムの焼けかかっているイヤな臭いがした。
「おい、親爺《おど》、ゴム!」
「ん、あ、こげた!」
 波が出て来たらしく、サイドが微《かす》かになってきた。船も子守|唄《うた》程に揺れている。腐った海漿《ほおずき》のような五燭燈でストーヴを囲んでいるお互の、後に落ちている影が色々にもつれて、組合った。――静かな夜だった。ストーヴの口から赤い火が、膝《ひざ》から下にチラチラと反映していた。不幸だった自分の一生が、ひょいと――まるッきり、ひょいと、しかも一瞬間だけ見返される――不思議に静かな夜だった。
「煙草|無《ね》えか?」
「無え……」
「無えか?……」
「なかったな」
「糞」
「おい、ウイスキーをこっちにも廻せよ、な」
 相手は角瓶《かくびん》を逆かさに振ってみせた。
「おッと、勿体《もったい》ねえことするなよ」
「ハハハハハハハ」
「飛んでもねえ所さ、然し来たもんだな、俺も……」その漁夫は芝浦の工場にいたことがあった。そこの話がそれから出た。それは北海道の労働者達には「工場[#「工場」に傍点]」だとは想像もつかない「立派な処[#「立派な処」に傍点]」に思われた。「ここの百に一つ位のことがあったって、あっちじゃストライキだよ」と云った。
 その事から――そのキッかけで、お互の今までしてきた色々のことが、ひょいひょいと話に出てきた。「国道開たく工事」「灌漑《かんがい》工事」「鉄道敷設」「築港埋立」「新鉱発掘」「開墾」「積取人夫」「鰊《にしん》取り」――殆《ほと》んど、そのどれかを皆はしてきていた。
 ――内地では、労働者が「横平《おうへい》」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪《かぎづめ》をのばした。其処《そこ》では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた。「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱《しらみ》より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪《た》えられなくて逃亡する。それが捕《つか》まると、棒杭《ぼうぐい》にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴《け》らせたり、裏庭で土佐犬に噛《か》み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨《ろっこつ》が胸の中で折れるボクッ[#「ボクッ」に傍点]とこもった[#「こもった」に傍点]音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。気絶をすれば、水をかけて生かし、それを何度も何度も繰りかえした。終《しま》いには風呂敷包みのように、土佐犬の強靱《きょうじん》な首で振り廻わされて死ぬ。ぐったり広場の隅《すみ》に投げ出されて、放って置かれてからも、身体の何処かが、ピクピクと動いていた。焼火箸《やけひばし》をいきなり尻にあてることや、六角棒で腰が立たなくなる程なぐりつけることは「毎日[#「毎日」に傍点]」だった。飯を食っていると、急に、
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