ちから合図をしても、それが返って来なかった。――その遅く、睾隠《きんかく》しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。
 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。かじかんだ手を懐《ふところ》につッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室まで見廻って歩いて、風邪《かぜ》をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。
 風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木《すりこぎ》のように感覚が無くなった。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでいた。彼の持っている竹の先きには皮がついていた。それは工場で怠《なま》けているものを機械の枠越《わくご》しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた。
「昨夜《ゆうべ》出されたきりで、もの[#「もの」に傍点]も云えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならないって、さっき足で蹴《け》ってるんだよ」
 学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知らせた。
「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」
 其処《そこ》へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た。寒い雨に濡《ぬ》れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それから肋膜《ろくまく》を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわしていた。子供らしくない皺《しわ》を眉《まゆ》の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、疳《かん》のピリピリしているような眼差《まなざ》しをしていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウロしていたところを、見付けられたのだった。
 出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二人を何も云えず、見送っていた。四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤをするように頭をゆるく二、三度振った。
「風邪をひいてもらったり、不貞寝《ふてね》をされてもらったりするために、高い金払って連れて来たんじゃないんだぜ。――馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」
 監督が甲板を棍棒《こんぼう》で叩いた。

前へ 次へ
全70ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング