「天皇陛下は雲の上にいるから、俺達にャどうでもいいんだけど、浅ってなれば、どっこいそうは行かないからな」
 別な方から、
「ケチケチすんねえ、何んだ、飯の一杯、二杯! なぐってしまえ!」唇を尖《と》んがらした声だった。
「偉い偉い。そいつを浅の前で云えれば、なお偉い!」
 皆は仕方なく、腹を立てたまま、笑ってしまった。
 夜、余程過ぎてから、雨合羽を着た監督が、漁夫の寝ているところへ入ってきた。船の動揺を棚の枠《わく》につかまって支《ささ》えながら、一々漁夫の間にカンテラを差しつけて歩いた。南瓜《かぼちゃ》のようにゴロゴロしている頭を、無遠慮にグイグイと向き直して、カンテラで照らしてみていた。フンづけられたって、目を覚ます筈がなかった。全部照し終ると、一寸立ち止まって舌打ちをした。――どうしようか、そんな風だった。が、すぐ次の賄部屋の方へ歩き出した。末広な、青ッぽいカンテラの光が揺れる度に、ゴミゴミした棚の一部や、脛《すね》の長い防水ゴム靴や、支柱に懸けてあるドザや袢天《はんてん》、それに行李《こうり》などの一部分がチラ、チラッと光って、消えた。――足元に光が顫《ふる》えながら一瞬間|溜《た》まる、と今度は賄のドアーに幻燈のような円るい光の輪を写した。――次の朝になって、雑夫の一人が行衛《ゆくえ》不明になったことが知れた。
 皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじゃ、波に浚《さら》われたんだ」と思った。イヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互に話すことが出来なかった。
「こったら冷《しゃ》ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって! 隠れてやがるんだ。見付けたら、畜生、タタきのめしてやるから!」
 監督は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら、船の中を探して歩いた。
 時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入ると、「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越してきた。一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か跛《びっこ》な音をたてて進んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急角度を切って吹きとんで行った。小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもりもりと波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に迷いこんで
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