板に這《は》いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに滑《すべ》った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめ[#「おしめ」に傍点]のようにブラ下り、作業をしなければならなかった。――監督は鮭殺しの棍棒《こんぼう》をもって、大声で怒鳴り散らした。
 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者《できししゃ》が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
 蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶《ふか》のように、白い歯をむいてくる波にもぎ[#「もぎ」に傍点]取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭《か》けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一|艘《ぱい》取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語[#「日本語」に傍点]でハッキリそういった。
 カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子《しし》のように、えどなみかかってきた。船はまるで兎《うさぎ》より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきた。しかし時化《しけ》は止みそうもなかった。
 仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆は蚕のように、各※[#二の字点、1−2−22]の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に食いついている虻《あぶ》を追払う馬のように、身体をヤケ[#「ヤケ」に傍点]に振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に煤《すす》けた天井にやったり、殆《ほと》んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には、呆《ほお》けたように
前へ 次へ
全70ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング