なたは、何方にゐらつしやるんです、)
(私、先つき此方へ参りましたんですよ、)
女が淋しさうに云つた。
(それぢや、宿にはまだお這入りにならないんですね、)
(ええ、ちよつと、なんですから、)
彼はふと女は誰か待合はす者でもあるかも判らないと思ひ出した。
(こんな遅くなつて、一人かうしてゐらつしやるから、ちつとお尋ねしたんです、)
(有難うございます、あなたはこのあたりの旅館にいらつしやるの、)
(五六日前から、すぐ其所の鶏鳴館と云ふのに来てゐるんです。もしお宿の都合で、他がいけないやうならお出なさい、私は三島と云ふんです、)
(有難うございます、もしかすると、お願ひいたします、三島さんとおつしやいますね、)
(さうです、三島譲と云ひます、ぢや、失敬します、御都合でお出でなさい、)
彼は女と別れて歩いたが弱弱しい女の態度が気になつて、もしかするとよく新聞で見る自殺者の一人ではないだらうかと思ひ出した。彼は歩くのを止めて松の幹の立ち並んだ蔭からそつと女の方を覗いた。
女は顔に両手の掌を当ててゐた。それは確かに泣いてゐるらしかつた。彼はもう夕飯のことも忘れてぢつとして女の方を見てゐた……
譲はふと道の曲り角に来たことに気がついた。で、左に折れ曲らうとして見ると、其所に一軒の門口が見えて、出口に一本の欅があり、その欅の後にあつた板塀の内の柱に門燈が光つてゐたが、それは針金の網に包んだ円い笠に被れたもので、その柱に添うて女竹のやうな竹が二三本立ち小さなその葉がぢつと立つてゐた。ふと見るとその電燈の笠の内側に黒い斑点が見えた。それは壁虎であつた。壁虎は餌を見付けたのか首を出したがその首が五寸ぐらゐも延びて見えた。彼はやつと思つて足を止めた。電燈の笠が地球儀の舞ふやうにくるくると舞ひ出した。彼は厭なものを見たのだと思つて路の悪いことも忘れて小走りに左の方へと曲つて行つた。
二
譲は奇怪な思ひに悩まされながら歩いてゐたがその内に頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんな馬鹿気たことのある筈がない、神経の具合であんなに見えたものであらうと思ひ出した。しかしそれが神経の具合だとすると、自分は今晩どうかしてゐるかも判らない、もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思ひ出した。さう思ふと憂鬱な気持になつて来た。
譲はその憂鬱な気持の中で、偶然な機会から女を
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