逃げて帰りたかつた。
「僕を帰してください、僕は大変な用事がある、ゐることは出来ないから、帰してください、」
 譲は女の手を振り払はうとしたが離れなかつた。
「そんな無理なことを云ふもんぢやありませんよ、あなたの御用つて、下宿に女の方が待つてるだけのことでせう、」
「そんなことぢやないんです、」
「さうですよ、私にはちやんと判つてるんですよ、その女よりか、いくら家の奥さんが好いか判らないぢやありませんか、ほんとうにあなたは、慾を知らない方ね、此方へゐらつしやいよ、いくら逃げやうとしたつて、今度は放しませんよ、ゐらつしやいよ、」
 女はぐんぐんとその手を引張り出した。譲の体は崩れるやうになつて引張られて行つた。
「放してください、」
「駄目よ、男らしくないことを云ふもんぢやありませんよ、」
 譲は室の中へ引張り込まれた。其所は青い帷を張つたはじめの室であつた。
「奥様がどんなに待つてゐらつしやるか判りませんよ、此方へゐらつしやいよ、」
 年増は片手を離してそれで帷を捲くやうにして無理やりに譲の体をその中へ引込んだ。
 其所には真中に寝台があつてその寝台の縁に綺麗な主婦が腰をかけて、ぢつと眼を据ゑて這入つて来る譲の顔を見てゐた。その室の三方には屏風とも衝立とも判らないものを立てまはして、それに色彩の濃い奇怪な絵を画いてあつた。
「ほんとにだだつ子で、やつと掴まへてまゐりました、」
 年増は譲を主婦の傍へ引張つて行つて、主婦の向ふ側の寝台の縁へ腰をかけさせやうとした。
「放してください、僕は駄目です、僕は用事があるんです、僕は厭です、」
 譲は年増の女を振り放して逃げやうとしたが放れなかつた。
「駄目ですよ、もうなんと云つても放しませんよ、そんな馬鹿なことをせずに、ぢつとしてゐらつしやいよ、本当にあなたは馬鹿ね、え、」
 主婦の眼は譲の顔から離れなかつた。
「おとなしくだだをこねずに、奥さんのお相手をなさいよ、」
 年増は押へ付けるやうにして、譲を寝台の縁へかけさした。譲は仕方なしに腰をかけながら、ただ逃げ出さうとしても逃げられないから、油断をさしておいて隙を見て逃げやうと思つたが、頭が混乱してゐて落ちついてはゐられなかつた。
「そんなに急がなくつたつて、ゆつくりなされたら好いぢやありませんか、」
 主婦は年増の放した譲の手に軽く自分の手をかけて、心持ち譲を引き寄せるやう
前へ 次へ
全18ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング