た。讓はそれを左に折れながらちょっと女の方を揮《ふ》り返った。※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》に化粧をした細面《ほそおもて》の顔があった。
「こっちですよ、いくらか明るいじゃありませんか」
「おかげさまで、助かりました」
「もう、これから前《さき》は、そんなに暗くはありませんよ」
「はあ、これから前は、私もよく存じております」
「そうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね」
「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます」
「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは」
「私は柏木《かしわぎ》ですよ」
「それは大変ですね」
「はあ、だから、この前《さき》の親類へ泊まろうか、どうしようかと思っているのですよ」
 讓はこの女は厳格な家庭の者ではないと思った。香《におい》のあるような女の呼吸使《いきづか》いがすぐ近くにあった。彼はちょっとした誘惑を感じたが己の室《へや》で机に肱《ひじ》をもたせて、己の帰りを待っている女の顔がすぐその誘惑を掻《か》き乱した。
「そうですな、もう遅いから、親類でお泊りになるが好いのでしょう、そこまで送ってあげましょう」
「どうもすみません」
「好いです、送ってあげましょう」
「では、すみませんが」
「その家はあなたが御存じでしょう」
 女は讓の左側に並んで歩いていた。
「知ってます」
 右へ曲る角《かど》にバーがあって、入口に立てた衝立《ついたて》の横から浅黄《あさぎ》の洋服の胴体が一つ見えていたが、中はひっそりとして声はしなかった。
「こっちへ往くのですか」
 讓は曲った方へ指をやった。
「このつぎの横町《よこちょう》を曲って、ちょっと往ったところです、すみません」
「なに好いのですよ、往きましょう」
 路《みち》の上が急に暗くなって来た。何人《なんびと》かがこのあたりに見はっていて、故意に門燈のスイッチをひねっているようであった。
「すこし、こっちは、暗いのですよ」
 女の声には霧がかかったようになった。
「そうですね」
 女はもう何も云わなかった。

      ※[#ローマ数字「III」、1−13−23]

「ここですよ」
 蒸し蒸しするような物の底に押し込められているような気もちになっていた讓は、女の声に気が注《つ》いて足をとめた。そこにはインキの滲《にじ》んだような門燈の点《つ》いている昔風な屋敷門があっ
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