ゆめうつつ》の境にいた章の眼は覚めてしまった。青い衣服《きもの》を着た小柄な女が、自個《じぶん》に片手を掴まれて傍に仆《たお》れていた。
「赦《ゆる》してください、赦してください」
 女は泣声を立てた。章は手に力を入れることを止めて、俯伏しになっている女の顔を見た。若い長手《ながて》な顔をした女であった。
「赦してください、悪うございました」
 章はこうした山の中へ若い女のくるのを不思議に思わぬでもなかったが、別に敵意のない弱い女ということを見極めたので、掴んでいた手を放した。
「あなたは、どうした方です」
 女はそこへ蹲《しゃが》んでしまった。
「この、すぐ、前方《むこう》の谷陰にいる者でございます」
「では、ここへ、何しにきました」
「月が綺麗なものでございますから、つい、ふらふらと歩いてきました」
 章は咽喉元を嘗められたような気のしたのをおもいだした。
「私は、貴女の手を、どうした拍子に掴んだのか判らないが、なんだか夢心地に、咽喉元を嘗められたように思います、私の咽喉をどうかしたのですか」
 黒い水みずした眼があった。
「どうも悪うございました、つい悪戯《いたずら》をいたしました」
 章は無邪気な女を苦しめては可哀想だと思いだした。
「そうですか、私は、また、獣か何かが来て、嘗めたかと思いました、不意に手を掴んだので、びっくりしたのでしょう」
 女の笑声がそこに起った。
「皆さんが心配してるかもわかりません、送ってあげましょう」
「有難うございます」と言ったが、女はもじもじして起《た》ちあがらない。
「送ってあげましょう、私も猟にきて帰れないので、しかたなしにここに寝ておりますものの、ゆっくり睡れないのですから、貴女の家の簷《のき》の下でも拝借しましょう」
「では、お願いいたします」
 章は立ちあがって猟袋を背にかけはじめた。
「まあ、こんな処に、何をしていらっしゃるのです」と不意に女の声がした。
 章は矢筒を持ったなりに振り返った。二十七八に見える背の高い女が来て立っていた。
「ここでこの方にお目にかかってね」若い女は急に笑いだして、そして言った。「それでね」
「お目にかかってどうしました、また何か、悪戯《いたずら》をなされたではありませんか」
 若い女は笑って何も言わない。
「何かまたきっと悪戯をなされたでしょう」
「ほんとうは悪戯したのよ、この方が睡っ
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