て※[#「魚+(「孚」の「子」に代えて「女」)」、第4水準2−93−47]《あざ》れたようになった空の下に、立山の主峰が尖んがった輪廓を見せていた。
 路は大きな谷間の方へ降りて往った。その路を歩いていると池のようになった十坪位の窪地が前に来て、路は其処から右へ折れていた。案内者は窪地の縁に往くと足を止めた。
「此処が立山の地獄でございます、此方へ坐って待っていなさると、むこうの高い処を亡者が通ります」と、案内者は提灯の灯をあげて云った。
 窪地のむこうには薄く篠笹の生えた勾配の緩い岩山の腰があった。小八は案内者の云うとおりになって案内者の持って来た荒薦《あらごも》を敷いて坐った。
「それでは、日の出比になってお迎いに来ます」と、云って案内者は提灯をくるりと廻して帰って往った。
 小八は黙って坐っていた。案内者の提灯の灯は谷のむこうに越えてしまった。小八は背筋がぞくぞくするけれども窪地のむこうにやった眼は動かさなかった。
 夜はますます明けて来て谷の中は微暗かったが、空は明るくなっていた。と、白い物の影が小八の眼にちらちらと映った。白装束をして頭髪《かみ》をふり乱した背の高い女の姿が窪地のむこうの岩山の腰に露われて、それがむこうの方へ往こうとした。小八は眼を見据えた。少し距離があるうえに微暗いので分明《はっきり》としないが、その姿は女房そっくりであった。小八はもう宿の主翁の戒めも忘れていた。彼は起ちあがって窪地の縁を廻って岩山の腰に走って往った。そして、女房の名を口にしながら女の方へ駈けて往った。
 と、そろそろと動いていた女の姿は、急に走るように前の方へ動きだした。小八は狂人《きちがい》のようになって追って往った。彼と女の距離は迫って来た。
 小八は女の体を背後《うしろ》から抱き縮めた。女は小八をふり放して逃げようと悶掻いた。小八は動かさなかった。
 女にはこの世の人のような柔かな感じがあった。
「どうか見逃しくださいませ、見逃してくださいませ」
 と、女はおろおろ声で云って身を悶掻いた。
 小八は眼を瞠って額に三角の紙を張った女の横顔を覗き込んだ。
「私が己《じぶん》でしたことでありませんから、どうか見逃してくださいませ」
「……じゃ、お前は亡者でねえのか」
「亡者宿へ売られておる者でございます」
「なあんだ」小八はばかばかしくもあれば忌《いま》いましくもあった
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