、詞をかけますと、姿が無くなりますうえに、冥土の障礙《さわり》となって、亡者が浮ばれないと申しますから」
「好いとも、私にゃ念仏も云えないから、黙って見ていよう」
「それが宜しゅうございます、で、その亡者と云うのは、どうした方でございます」
 小八の逢いたいのは先月亡くなった女房であった。新吉原の小格子にいた女郎と深くなって、通っている中にその女郎の年季が明けて自由の体になった。小八は落ちてきた熟柿《じゅくし》でも執るように女を己《じぶん》の処へ伴《つ》れて来た。小八は下谷長者町の裏長屋に住んでいる消火夫《しごとし》であった。女は背の高い眼の大きな何処かに男好きのする処があった。女が無花果《いちじく》の青葉の陰を落した井戸端へ出て米を磨ぐと、小八はいばった口を利きながらも、傍へ往って手桶へ水を汲んでやりなどして、長屋の嬶達のからかいの的となっていた。それが一箇月も経たないうちに一日位煩って亡くなった。小八はそれがために気抜けのしたようになって、毎日家の中にぽかんとしていた。で、長屋の者や消火夫仲間が心配して小八の気を引き立ててやろうとした。そのうちに越中立山の麓へ往けば亡者宿と云うものがあって、其処へ往って頼めば逢いたい亡者に逢えると云う者があった。小八はそれを聞くと彼方此方で工面して三両余りの金を拵えて来たところであった。小八は主翁に対して逢いたいのは女房だと云った。
「それは、御愁傷様でございます、お年は幾歳《いくつ》でございました」と、主翁が云った。
「二十五だった」
「お客さんのお媽《かみ》さんなら、定めて背のすっきりした、面長の好い容貌《きりょう》でございましたろう」
「なに」と、小八は苦笑いして、「……まあ、背だけは高かったよ、顔も長手なことは長手だったが、消火夫《しごとし》風情の嬶に、そんな好い女があるものか」
「どうして、江戸の女子は※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》でございますから」と、云って主翁は急に用を思い出したようにして、「命日は何日《いつ》でございます」
「先月の七日だ」
「それで亡者にお逢いになるには、なんすることになっております、これはあなた様ばかりでなく、他からも亡者に逢いに来なさる方は、皆いちようにそう云うことを定めております、今晩の回向料が二百匹、案内の男が四百文、それに宿銭が三百文、この他に後の回向をお頼みにな
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