なっていることを知らなかった。
 その時から朱のくるのが漸く疎《うと》くなって、月に一度か二度しかこないようになった。ある夜来て細君に言った。
「これでお前達といよいよ訣《わか》れる時がきた」
 そこで細君が訊いた。
「何所へ往きます」
 朱は言った。
「上帝の命を受けて、大華卿《たいがきょう》となって、遠くへ往くから、事務が煩わしいうえに途も遠いので、もうくることができない」
 母子のものがとりすがって泣いた。すると朱は、
「泣いてはいけない、もう小児も大きくなって、生活《くらし》にも困らないじゃないか、百年も離れない夫婦が何所にある」
 と言って、緯をかえりみて、
「よく立派な人になれ、父の後を絶やしてはならんぞ、十年したら一度逢う」
 と言ってそのまま門を出て往ったが、それから遂にこなかった。
 後、緯が二十五になって、進士に挙げられ、行人の官になって、命を奉じて西岳華山の神を祭りに往ったが、華陰《かいん》にかかると、輿《こし》に乗って羽傘《はねがさ》をさしかけて往く一行が鹵簿《ろぼ》に衝っかかってきた。不思議に思うて車の中をよく見ると、それは父の朱であった。緯は泣きながら馬をお
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