ってきた者があった。見るとそれは昨夜の判官であった。朱は起って言った。
「俺は死ななくちゃならないのか、昨日神聖をけがしたから、殺しにきたのだろう」
 判官は濃い髯の中から微笑を見せて言った。
「いや、そうじゃない、昨日招かれたから、今晩は暇でもあったし、謹んで達人との約を果そうと思って来たところだ」
「そうか、それは有難い」
 朱はひどく悦んで、判官の衣を牽《ひ》いて坐らし、自分で往って器を洗い酒を温めようとした。すると判官が言った。
「天気が温かいから、冷でいいよ」
 朱は判官の言うとおりに酒の瓶を案《つくえ》の上に置き、走って往って家内の者に言いつけて肴《さかな》をこしらえさせた。細君は大いに駭《おどろ》いて、判官の傍へ往かさないようにしたが、朱は聴かないで、立ったままで肴のできるのを待って出て往き、判官と杯のやりとりをした。
 そして朱は判官に、
「あなたの姓名を知らしてください」
 と言った。判官は、
「僕は陸という姓だが、名はないよ」
 と言った。そこで古典の談《はなし》をしてみると、その応答は響のようであった。朱は陸に進士の試験に必要な文章のことを聞いた。
「制芸を知っておりますか」
 陸は、
「よしあし位は知っておる」
 と言って文章の談をし、それから冥途《あのよ》の官署の談をしたが、ほぼ現世と同じだった。陸は非常な大酒で一飲みに十の大杯に入れるほどの酒を飲んだ。朱は陸の相手になって朝まで飲んでいたので、とうとう酔い倒れて案にうつぶせになって睡って、醒めた比《ころ》には残燭《ざんしょく》ほの暗く怪しいお客はもういなかった。
 それからというものは、陸は二日目か三日目にきたので、二人の間は、ますます親密になった。時とすると酒を飲んでいてそのまま倒れて寝て往くこともあった。朱が文章の草稿を見せると陸が朱筆で消して、
「どうも佳くない」
 と言った。ある夜、朱が酔うて前《さき》に寝た。陸はまだ独りで飲んでいた。朱はその時夢心地に臓腑に微かな痛みを覚えたので、眼を醒ました。陸が榻《ねだい》の前へ坐って、自分の胸を斬り裂いて腸胃を引き出し、それを一筋一筋整理しているところであった。朱は愕いて言った。
「何の怨みもないのに、なぜ僕を殺すのだ」
 陸は笑って言った。
「懼《おそ》れることはない、僕は君のために、聡明な心を入れかえているのだ」
 陸はしずかに腸《はら
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