で勘定をすまして一人になって酒肆を出たが、苦しくない位の酔があって非常に好い気もちであった。彼は夕暮の涼しい風に酒にほてった頬を吹かれて家いえの簷の下を歩いていた。
一軒の楼屋《にかいや》があってその時窓を開けたが、そのひょうしに何か物が落ちてきてそれが許宣の頭に当った。許宣はむっとしたので叱りつけた。
「この馬鹿者、気を注けろ」
楼屋の窓には女の顔があった。女は眼を落してじっと許宣の顔を見たが、何か言って引込んだ。許宣が不思議に思っていると、かの女は門口からあたふたと出てきた。それは白娘子であった。
「この妖婦、また来て俺を苦しめようとするのか、今度はもう承知しない、つかまえて引きわたすからそう思え」
白娘子は眼に笑っていた。
「まあそんなにおっしゃらないで、私の言うことを聞いてくださいよ、二度もあなたをまきぞえにしてすみませんが、あの衣服と扇子は、私の先の夫の持っていたものですよ、決して怪しいものじゃありません、だから疑いが晴れたじゃありませんか」
「それじゃ、俺が王主人の処へ帰った時に、何故いなかったのだ」
「それは、あなたの帰りが遅いものですから、婢と二人であなたを捜しに往ったところで、あの騒ぎでしょう、私は恐ろしくなったから、船で婢の母の兄弟のいる、この家へ来ていたのです」
許宣の白娘子に対する怒りは解けた。許宣は白娘子に随いてその家へ往ってそこに一泊したが、それからまた元のとおりの夫婦となった。
そのうちに李克用の誕生日がきた。許宣夫婦も進物を持って李家へ祝いに往った。李克用は筵席《えんせき》を按排《あんばい》して親友や知人を招いていた。
この李克用は一個の好色漢であった。彼は白娘子を一眼見てたちまちその本性を現わした。白娘子が東厠《べんじょ》へ往ったことを知ると、そっと席をはずして後からつけて往った。そして、花のような女のその中にいることを想像してそっと内へ入った。内には桶の胴のような大きな白い蛇がとぐろを捲いていた。その蛇の両眼は燈盞《かわらけ》のように大きくて金光を放って輝いていた。李克用はびっくりして逃げだしたが、逃げるひょうしに躓《つまず》いて倒れてしまった。
李克用の家に養われている娘が、李克用の倒れて気絶しているのを見つけた。家の内は大騒ぎになって皆が集まってきた。そして、薬を飲ましたりして介抱しているとやっと気が注いた。家の者がどうしたかと言って訊くと、彼は連日の疲れで体を痛めたためだと言った。
李克用の気もちが好くなったので、宴席も元のとおりになったが、やがてその席も終って客は帰って往った。白娘子はいつの間にか家へ帰っていたが、許宣に話したいことがあるのかそっと舗へ来た。
「今晩は、みょうに気もちがわるいから、来たのですよ」
「今晩は御馳走になっていい気もちじゃないか」
「いい気もちじゃありませんよ、あなたは、ここの旦那を老実な方だと言いましたが、どうしてそうじゃありませんよ、私が東厠へ往ってると、後からつけてきて手籠めにしようとしたのです、ほんとに厭な方ですよ」
「しかし、べつにどうせられたというでもなかろう、まあいいじゃないか、早く帰ってお休みよ」
「でも、私はあの旦那が恐いわ、これからさき、まだどんなことをせられるか判らないのですもの、それよりか、私が二三十両持ってますから、ここを出て、碼頭《はとば》のあたりで、小さな薬舗を開こうじゃありませんか」
許宣も人の家の主管をして身を縛られているよりも、自由に自分で舗を持ちたかった。彼は白娘子の詞に動かされた。
「そうだな、小さな舗が持てるなら、そりゃその方がいいが」
「では持とうじゃありませんか」
「そうだね、持ってもいいな、じゃ、暇をくれるかくれないか、明日旦那に願ってみよう」
許宣は翌日李克用に相談した。李克用は自分の弱点があるうえに奇怪な目に逢っているので、許宣の言うことに反対しなかった。そこで許宣は白娘子と二人で、碼頭の傍へ手ごろの家を借りて薬舗をはじめた。許宣ははじめて一家の主人となっておちつくことができた。
七月の七日になった。その日は英烈竜王の生日《えんにち》であった。許宣は金山寺へ焼香に往きたいと思って、再三白娘子に同行を勧めたが白娘子は往かなかった。
「あなた一人で往ってらっしゃい、しかし、方丈へ往ってはいけないのですよ、あすこには、坊主が説経してますから、きっと布施を取られますよ、いいですか、きっと方丈へ往ってはいけないのですよ」
許宣は独りで往くことにして、舟を雇い、上流約一里の処にある金山寺の島山へ往った。揚子江の赤濁りのした流れを上下して、金山寺へ往来する参詣人の舟が水鳥の群のように浮んでいた。京口瓜州一水《きょうこうかしゅういっすい》の間、前岸瓜州《ぜんがんかしゅう》の楊柳は青々として見えた。
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング