とで命を支えられるはずのものでない、こうなるのも前世の約束ごとだろう、しかたがない、井戸の中で餓死に死ぬるは武士の恥じゃ、思い切って切腹しよう、餓死にすることは、武士の恥じゃ)
 大塚は肩にしていた銃をおろし、土に背をもたし腕組みして考え込んだ。
(ここで俺がこのまま切腹したとしたなら、家の女房や、小供はどうなるだろう)
 彼はもう自殺をするものとして死後のことに就いて考えていた。考えているうちに何か不意に注意を促されたものがあった。彼は顔をあげて井戸の口の方を見た。井戸の口に赤い顔が見えた。
(何人《たれ》か覗いておるぞ、人が来てくれたか、人が)
 赤い顔の周囲《まわり》には白い毛並があった。茶色の二つの眼が光っていた。それは猿であるらしい。
(猿じゃ、人間なら引きあげて貰えるが、猿じゃしかたがない)
 大塚はがっかりしたように云った。覗いていた赤い顔がきゃっきゃっと二三回声をたてたかと思うと、もう見えなくなってしまった。
(人間の真似ができると云っても、やっぱり猿は畜生じゃ)
 大塚はまた腕を組んで考え込んだ。彼はまた己《じぶん》の死後のことをそれからそれへと考えていた。その大塚の耳に微《かすか》な音が入って来た。井戸の口のあたりで風でも吹いているようなどうどうと云う音であった。大塚はまた眼を開けて井戸の口の方を見た。
 一掴みばかりの枝屑がぱらぱらと落ちて来た。大塚は顔を伏せてその塵を眼に入れまいとした。枝屑は首筋にも当って落ちた。大塚はまた眼を開けた。一匹の獣が井戸の上を飛び越えた。その影がかすかに入口に射している日の光に綾をした。二三枚の枯葉がまたちらちらと落ちて来た。
(初めのはたしかに猿であったが、今のは何であろう)
 大塚はこう思いながらちょっとまた眼をつむって考えた。
(ついすると、猿の千匹伴が、集まって来ているかもわからん、薩摩藷でも執りに来ているだろうが、何しろ猿では助けてもらうことはできんのじゃ)
 大塚はもう自殺するより他に道が無いと決心した。決心したもののなるだけなら犬死はしたくなかった。彼の心の底の方には何かしら己《じぶん》の危難に陥入っているのを知って助けに来てくれる者があるような気がして、刀に手をかけるまでにはゆかなかった。
(何人《だれ》か来そうだぞ、何人か助けに来るような気がするぞ)
 彼はこんな気もちでまた上の方に眼をやった。
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