昔のことは知らないだろうが、彼の邸では、昔こんなこともあったよ――」
旅僧は用人の聞いている昔主家に起った事件をはじめとして、近|比《ごろ》の事件まで手に執るようにくわしく話しだした。用人は驚いて開いた口が塞がらなかった。
「どうだね、お前さん、思いあたることがあるかね」
旅僧はにやりと嘲笑を浮べながら煙草の吹殻を掌にころがして、煙管に新らしい煙草を詰めてそれを吸いつけ、
「寸分もちがっていないだろう、それでもちがうかね」
「よくあってます」
用人は煙草の火の消えたのも忘れていた。
「あってるかね、そりゃあってるよ、毎日邸で見てるからね」
用人は頭を傾げて旅僧が如何なる者であるかを考えようとした。
「私が判るかね」
旅僧は嘲笑いを続けている。
「判りません、どうした方です」
「私《わし》は貧乏神だよ」
「え」
「三代前から――の邸にいる貧乏神だよ」
「え」
「私《わし》がいたために、病人ができる、借金はできる、長い間苦しんだが、やっと、その数が竭《つ》きて私は他へ移ることになったから、これから、お前さんの主人の運も開けて、借金も返される」
話のうちに草加の宿は通り過ぎたが、用人は霧の深い谷間にいるような気になっていて気がつかなかった。
「だから、これから、お前さんの心配も無くなるわけだ」
用人はその詞《ことば》を聞くとなんだか肩に背負っていた重荷が執れたような気がした。
「では、あなた様は、これから何方《どちら》へお移りになります」
「私《わし》の往くさきかの、往くさきは、隣の――の邸さ」
「え」
「其処へ移るまでに、すこし暇ができたから、越谷にいる仲間の処へ遊びに来たが、明日はもう移るよ」
用人はその名ざされた家のことを心に浮べた。
「お前さんが嘘と思うなら、好く見ているが好い、明日からその家では、病人ができ、借金ができて、恰好《ちょうど》お前さんの主人の家のようになるさ」
「え」
「だが、これは決して人にもらしてはならんよ」
「はい」
「じゃ、もう別れよう」
用人がはっと気がついた時にはもう怪しい旅僧はいなかった。其処はもう越谷になっていた。
用人は知行所へ往ったが、度たび無理取立てをしてあるのでとても思うとおりにできまいと心配していた金が、思いのほか多く執れたので、貧乏神の教えもあるし彼は喜び勇んで帰って来た。
底本:「日本の怪談」河出文庫、河出書房新社
1985(昭和60)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:松永正敏
2001年2月23日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング